紀州藩の遠見番所と狼煙場
上野一夫


「海防における鯨方の役目」

 『南紀徳川史第一冊』元和五(1619)年己未「去冬ヨリ江戸ニ在 八月紀州勢州ヲ賜テ入国ス」源朝臣頼信が紀州に入国、紀州五十五万五千石の藩祖となって紀州藩が始まった。

 『南紀徳川史』に「紀州沿岸ほとんど一百里皆大洋を受く故に海防の事、国祖之御時より最も重きを置くかる…海防といふは左の遠見番所に見張り番人 …狼煙所を設く」。ここに記されている「海防」という制度は、外国との交易を拒み、開国を求める外国船の進入・攻撃を見張って、いざとなったら狼煙を上げて兵を招集し防備対応するということだと理解していた。「海防」に関する遠見番所、狼煙場について調査することによって、その鎖国と習った制度を実施するに至った過程、鎖国制度とはどのようなことなのか、鎖国制度を実行していく中での紀州藩の対応、はたまた狼煙と「狼」と関係する日本狼の生息実態など見逃してきた諸々の事を解明したいと思う。

 『南紀徳川史』には以下の遠見番所が記載されている。

海士郡大川浦 加太田倉崎
雑賀崎 同大崎浦
有田郡宮崎 日高郡白崎
口熊野塩の御崎 口熊野朝来帰・番人安藤家より置く
口熊野瀬戸・田辺輿力三十日代わり 同上上野
奥熊野楯ヶ崎 奥熊野九木崎
口熊野太地 田丸田曾崎
                          

 14カ所の遠見番所が記されている。しかし、「口熊野塩の御崎」と「同上上野」(うわの)は同じ遠見番所のことで、本州最南端・潮岬灯台所の端に設けられていた「上野(うわの)浦遠見番所」のことだ。
 これら全ての遠見番所は藩内各地の大海原を望める出崎で、異国船(切支丹船)の往来を監視出来る最適な突端に設けられていた。
 『南紀徳川史』には記入漏れがあり、串本町には二カ所の遠見番所があった。江田組に属していた「上野浦遠見番所」と古座組に属していた「大島浦遠見番所」だ。両遠見番所は紀州藩の最南端に位置し、大阪〜江戸間の廻船海路の難所で「下り潮」「上り潮」などの潮流の変化を見極める「潮待ち」や、コチ(東風)・マゼ(南風)・ヤマゼ(冬の南風)・カワセ(西風)・イナサ(南東の風)・トキヨ(南西風)などの「風待ち」が必要なほど、天気が変わりやすく、難破しやすい危険海域なのだ。

 江田組・古座組それに周参見組は紀州藩の直轄地で、古座組には新宮の水野家を見張るお目付役所(現・古座小学校の処)が置かれ、藩営の古座鯨方大納屋(経営事務所)を設けて捕鯨事業を行っていた。捕鯨には古座組・江田組の人々が300人余りも関わり、地域にはなくてはならない地場産業だった。
 古座鯨方は冬期には、東から西へ回遊する上り鯨を樫野埼網代(大島)で、春は西から東へ回遊する下り鯨を住埼網代(潮岬)で捕鯨していた。樫野埼の鯨山見や潮岬の鯨山見から鯨を発見すると、網船が仕掛けた網代へ鯨を追い込み、網に絡まった鯨に勢子船から銛を放って仕留めていた。
 勢子船には15名程の水主が乗りこみ、八挺の櫓を代わる代わる押し漕ぐので海面を突き進む船足はかなり速く、古座の漁師町では船が風を切って早く進む様子を「ナッテいく」と表現する。

 長崎県の平戸・五島列島などでの捕鯨に関する事柄を記した『西海鯨鯢記』(享保五庚子年秋日)には、紀州の鯨漁師達がはるばる西海に進出し活躍したことが記されている。
 勢子船を「飛船」として解説した個所を分かりやすく抜粋してみる。「舟を彩色しているのは、桐油(アブラギリの実を圧搾して得る、防水になる)を練り漆とともに、舟の内外に塗っているのは美麗の好みではなく、舟板に水を含ませぬ為である。・・・・紀州の住人喜多嶋庄右衛門が五島の大寶(だいほう)より紀州和歌山へ舟水夫を選びて飛船をつかわす。三百六十里(1440q)程の海路を十七日間で往還する。今是を証拠とす、風波を嫌がらず、舟が転覆することがあっても恐れることなく泳ぎ、浮かべて櫓櫂をも捨てず、怪我する者なし。
 この記述で分かるように、水をはじく船体の塗装にアブラギリの実を圧搾した桐油を使用していた知恵に驚いたが、桐油の利用は第二次世界大戦時にもあって、この地方の小学校ではアブラギリを栽培、秋に実を採集して軍に供出し、兵器の錆止めに使用していたと聞いている。

 話はそれるが、この飛船に関する記述の隣に捕鯨銛の絵図があって、銛先だけが離れる離頭銛の図が描かれ、「チョッキリモリ」と記述されている。古座の漁師は、潜水して魚突き漁をする離頭の銛を「チョッキリモリ」と呼んでいるから、この「チョッキリモリ」は古座地方の鯨漁師が長崎県の西海に伝えたのだろう。
 海を熟知し八挺櫓の鯨舟を巧みに操っていた鯨方漁師達の勇敢なこと。頼宣公は湯崎に四五百艘の鯨船を集め、さながら水軍の鍛錬となるような鯨船の御遊びを行った。また紀州藩主から八代将軍になった吉宗公(徳川家康のひ孫)は、巨大な鯨に立ち向かう鯨方の組織力を海防体制に組いれ「水軍に意を用いる海防を厳にせんがため浦組の制を定め捕鯨に託して水軍の練習をなせり」(南牟婁郡誌・P301)と記されているように、いざとなったら水軍として海防の任に就くことを想定していた。


「ポルトガル船来航から追放にいたった過程」
  
 天文十二(1543)年、種子島へのポルトガル船の漂着により伝来した鉄砲は、瞬く間に諸国に広まり、織田信長の鉄砲隊の威力は戦国時代の戦法を変えてしまった。
 ヨーロッパ、アジア各国の輸入品はビスケット・カステラ・キャラメル・タバコ・絹織物・薬種などで、南蛮渡来の品々は日本の文化的営みを変えていったことだろう。日本からは銀など鉱物を輸出していた。

 天文十八(1549)年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが初めてキリスト教を伝道すると、九州各地の大名達はキリスト教の布教を認め、大名自身がキリシタンに改宗して南蛮貿易の利益を得ていた。
 キリシタン大名達は天正十(1582年)年、ローマ教皇に少年使節団(天正少年使節)を遣わし、八年後無事帰国した。その時、秀吉は伴天連追放令(1587年)を出していたが南蛮貿易、日本人のアジア貿易を推進していたので伴天連追放令は実際には機能しなかったそうだ(『江戸の外交戦略』大石学著・角川選書)。
 家康はさらに海外との貿易を推進させている。「京、堺、長崎の商人達は唐造り三本帆柱の朱印船で東南アジアへ渡海し貿易していた」(『通航一覧・八』P545)。

 『通航一覧・六・P501』に当時シャム(タイ)に渡った山田仁左衛門長政の活躍を記している。当時「慶長、元和の間、関ヶ原大坂落の諸浪人とも渡天の商船に取乗りて買人となり、外国に身を隠す者多し」と戦い敗れ浪人になってしまった悲哀を記している。シャムのアユタヤは南海第一の湊で各国の商船が入港し、日本の廻船も代わる代わる往来し繁盛していた。
 慶長五年(1600年)オランダ船・リーフデ号が豊後に来航、家康はこの乗組員でヤン・ヨーステン(オランダ人)、ウイリアム・アダムス(イギリス人)から各国間の紛争や文化・暮らしの話を聴き、アダムスを安針(あんじん)という日本名を与え、共に屋敷、家来を与えて重用した(『通航一覧・六』・P173)。
 家康の命により、安針は日本人船大工達と西洋型帆船を建造、難破したスペイン船の乗組員をメキシコへ送り届けるのにこの帆船が使われた。慶長十五(1610)年、家康は京都の商人・田中勝介や役人達を使節として派遣、スペイン領メキシコとの交易を望んだが成功しなかった。

 400年前、日本製の帆船で日本人が太平洋を横断、田中勝助らは翌年無事に帰国している(『江戸の外交戦略』)。
 続いて慶長十八(1613)年、伊達政宗もメキシコ(スペイン領)へ交易使節団(支倉常長)を派遣、だが使節団はメキシコから陸路大西洋に出てヨーロッパへ渡海しローマ教皇に謁見したのだった。七年後帰国したとき、メキシコ(スペイン領)との通商交易を求めていた幕府側と、あくまでもキリスト教の布教と通商交易一体化を譲れないポルトガル・スペインとの軋轢はすでに始まっていた。
 慶長十五(1610)年、キリスト教信者は65万人と膨れ上がっていた。ポルトガル王宛の「日本人信者とポルトガル兵が蜂起する計画書」を携えたポルトガル船をオランダ船が拿捕、この書簡はすぐさま長崎奉行所へ届けられた(『日本 1852 ペリー遠征計画の基礎資料』チャールズ・マックファーレン著 渡辺惣樹訳)。
これが決定打となって 慶長十七(1612)年に幕府の直轄領にキリスト教禁止を下知、次々とキリシタンの改宗を求め伴天連の追放を実行、寛永十二(1635)年には日本人の海外渡航と帰国を禁止(『江戸の外交戦略』)と、キリシタンにとって苦難の信仰を続けて行く中で寛永十四(1637)年、島原・天草で一揆が勃発した。
 田辺市・万代記に「肥前国天草嶋一揆陣」(寛永十四年九月26日)の書き付け、それに寛永十四年十二月十一日、「西国で吉支丹宗門が一揆を起こした。徒党の者がちりぢりに御国に参るかもしれない。あやしい者がいたら搦め取り押さえること。事が起こった場合、昼夜にかかわらず、手形にて郷継ぎで注進すること」。吉支丹宗門の一揆に対す警戒態勢の伝達が津々浦々まで伝えられた。
 
 この一揆を鎮圧するにあたってオランダは幕府の依頼を受けて、寛永十五(1638)年二月二日、一揆勢が立てこもる原城(キリシタン・天草四郎時貞・総大将)へオランダ船から艦砲射撃を行っている(『通航一覧・六』・P247・慶長十九年・大坂冬の役にもオランダの協力で大坂城中へ大砲を撃っている)。そして、27日の総攻撃で天草四郎を含む一揆勢を全員殺害して鎮圧した。『万代記』に「吉支丹宗門の一揆」と記されているから、島原・天草の乱は幕府にとって「宗教一揆」であって、この乱は幕府が長年懸念していた事項の勃発だったのだ。

 寛永十六(1639)年、三代将軍家光は教科書でいう鎖国令を発令した。その内容を要約すると「日本国において吉利支丹宗門は禁制になった。吉利支丹宗門達の邪な企てを処罰する。伴天連や吉利支丹宗門の隠れている所へ伴天連を送ってくることがある。以後カレウタ船(ポルトガル船)が日本に渡海するのを禁止する・寛永十六年卯七月五日」。この法令によって「海防」体制が全国津々浦々まで敷かれることになるのだが、「吉利支丹宗門御法度を遵守する為のポルトガル船来航禁止」が鎖国令の主旨だったとは。
 海防における異国船監視の重要な使命は伴天連の密航防止だったのだ。翌年の寛永十七(1640)年五月七日、貿易の再開を願い長崎に来航したポルトガル船の七十六名を捕らえ、六十三名を処刑。十三名を唐船で送り返しポルトガル船は焼き沈めた(通航一覧・八巻・P265)。幕府はこの件に関してポルトガル軍の報復攻撃を想定し九州の大名に長崎の防衛を命じている。
 
 藩内の各地域の人々が行き交う高札場には「伴天連訴人 銀弐百枚・いるまん訴人 銀 百枚・吉支丹訴人 銀五十枚」そして「切支丹であっても、宗旨を転び、申し出ればその罪を免じ、御褒美を与える」(寛永十五年寅九月二十三日・『万代記』寛永十六年の項・伴天連=キリスト教の宣教師、いるまん=伴天連の次の位、吉支丹=キリスト教の信者)と記された内容の高札が掲げられた。
 この高札によって紀州藩内でも訴人があり「伊都郡高野口町名倉に寛永十五年にキリシタンがおり、訴人によってその内容は明らかではないが弾圧されたことは注目される」と安藤精一氏は「和歌山におけるキリシタンの弾圧」(『和歌山の研究』第三巻近世・近代篇)について詳しく記述されている。
 豊臣秀吉の伴天連追放令(1587年)から始まったキリシタン弾圧は徳川幕府の吉利支丹宗門御法度と続き、明治六(1873)年、明治政府はこの高札を廃止するまで続けられた。幕府は寺請け制度を設けて寺と檀家の繋がりを強め、現在の役場のように身分を証明する宗門改帳への登記をしたり、巡礼の旅に出るときの「往来手形」などを発行していた。
 

「海防体制時の外国貿易」

 『通航一覧六巻』は阿蘭陀国部の特集になっている。「此の国、欧羅巴州のうちにして、ヲランダという、紅夷、紅毛、阿蘭陀、和蘭と記す。…肥前長崎よりおおよそ一萬三千里、直にしては二千四五百里の西北にあたる。…本邦に渡来せしは、慶長五年をはじめとする。…南海のジャワという大島に居館を構え。…開国の後、侵略の患なし。…されど其の奉する所の神をまた天主という。…ローマ処置の上申書にも、阿蘭陀も天主を奉せしか、耶蘇(やそ、イエスキリスト)は用いず、天主は天教の祖神、耶蘇は初めて其の法を広めたとある、だから、毎年に入津の唐船に踏み絵をさせているが、阿蘭陀は其の事をしない」と記されていて、ポルトガルとの極端な違いを列記している。

 耶蘇はJESUSでイエス(イエズス)のことなのに、耶蘇は用いずと記しているからイエズス会とは関係ないということなのか、はっきりと侵略の患なしとも記していて幕府はポルトガルのカトリックとオランダのプロテスタントとの教理の違いを理解していたようだ。『通航一覧』は江戸時代を通じた外交史の記録書で、阿蘭陀、朝鮮、琉球、魯西亜、東南アジアの国々等との交易や出来事を記しているのに、ポルトガルとの交易の記載がなく、南蛮船だとかカレウタ船(ポルトガル船)の来航禁止や吉利支丹宗門禁制の記述があるのみである。
 寛永十八(1641)年からオランダは長崎の出島にオランダ東インド会社商館を設け、この年には九艘入津、十九年は五艘、正保元(1644)年は八艘、寛文元(1661)年は十一艘の入津があった。しかし、正徳五(1715)年、三艘が入津すると、次の年から二艘と定められた。交代の甲必丹(カピタン・商館長)の乗った船が行方不明になり一艘の入津だったりと航海には危険が伴ったが、彼らは毎年六〜七月に来航していた(『通航一覧』第六・P181)。
 同じように、中国の海禁制度のために正式に国交を結んでいなかったが日中貿易も長崎で盛んに行われた。

 鎖国体制時、幕府は外国との国交を閉ざしていたから世界の情勢に疎かったと思われがちだが、入港するオランダ船、唐船に「風説書」を提出させて海外情報を得ていた。  「風説書」の内容はヨーロッパ・東南アジア・中国の国内状況や対外関係を通詞(通訳)が聴きまとめていた。

 風説書の内容を要約してみる。
  「エゲレス国の海賊船、広東の近海に船をかけ置き、唐船を待ちうけ唐船の荷物を奪う」
  「イタリヤ国内のロウマと言うところの、伴天連の総頭ぼおずが亡くなる…」
  「去年六月頃、フランス人軍勢八万人程とオランダ人方六万人が数度戦う…」
  「去年シャム国大干ばつ、その上熱病によって数万果てる…」
  「トルコという国とアラビアという国が戦う…」
  「フランス国と南蛮国(スペイン)がエゲレス国、阿蘭陀国、ドイチ国と戦う…」
  「去去年申し上げたように、阿蘭陀国の近国のドイチ国とトルコ国との数年に及んだ戦争が和睦になった。」
  「嘉永三年六月十一日、近来、米国艦江戸に来航して通商を求めてくる…」

 このような内容で、ヨーロッパ・アメリカ・東南アジア各国の紛争や出来事を記録している。
 朝鮮とは国交を回復して、朝鮮国通信使つまり信(よしみ)を通わす使節が来日し、対馬の宗氏が朝鮮国との外交・貿易を幕府から任されていた。
 琉球は薩摩藩によって支配されていたが、中国の冊封使の商船等も来航して薩摩への中継貿易をしていたから長崎より唐物がたくさん渡ってきていた。
 松前藩では蝦夷アイヌ・サハリンを通じ絹と毛皮の山丹交易(『サムライ異文化交渉使』御手洗昭治著・ゆまに書房)が盛んで、北前船でサケ・コンブ・ニシンなどの海産物を大坂へ運んでいた。
 このように、海防体制時の外国との貿易は盛んで、幕府は世界の情勢を風説書によって理解し、世界各国で勃発していた紛争が日本に及ばないように、さらなる海防体制を敷いたのだろう。
 

「海防体制の遠見番所と狼煙場の始まり」
 
 寛永十六(1639)年七月五日に幕府の最高首脳達が発令した吉利支丹宗門禁制、それを遵守するためのカレウタ(ポルトガル船)船追放令はもう一書あって、異国船、不審船に接する対処の決まり事を記している(『万代記』寛永十六年の項)。

 「吉利支丹宗門禁教になっているのに、ポルトガルは密かに伴天連を送ってくるので、カリウタ船(ガリオット船・ポルトガル船)の来航を禁止した」
 「領内浦々に確かな者を置き、不審な船が来たら入念に改めよ、異国船が着岸したら乗員の人数を改め、陸に上げずに長崎へ送ること」
 「不審なる者を船に乗せ、又は密かに船中の者を陸に上げる輩がいたら訴えること、褒美を与える」
この八月、紀州藩は安藤千福(田辺・安藤家三代目)に日高から塩之御崎の海域の不審船監視を命じている。

 この法令の翌年(寛永十七年六月二十八日)の通達には「このたび、長崎に着岸したかりうた船は御成敗された…」。これは前項で記したポルトガル船乗組員六十三名を処刑した事件のことで、紀州藩は幕府のポルトガル船の報復想定に対応する海防体制を各大庄屋に伝達した。
 旧古座町役場文書「寛永十七年 郷組の書上 古座大庄屋文書」がそれで、紀州藩内の各浦々を「郷組」に分けて、浦々の人々に不審船やカレウタ船・唐船の来航を見張らせる制度を発足させたのだった。

 「不審なる船が入港したら、…先んず和歌山へご注進申し上げ、新宮へも田辺へも申し上げること、カレウタ船のようだったら侍衆の指示に従うこと」
 「不審な船が沖を通ったとき、注進すること」
 「ご注進状は、庄屋がその船の様子を詳しく書き出し、手形と御印判を添えて、夜中に限らず近くの伝馬所へ伝えること」
 「伝えられた浦・村々は、注進あるなしに関わらず一刻も早く駆け付けて、其の組の指図に従うこと」

 しかし、この「郷組の書上」の内容には手形と御印判を添えて伝達すると記されていて、遠見番所、狼煙場についての指示がないので、寛永十七年当時は紀州藩内に遠見番所、狼煙場は築かれていなかったようだ。

 『万代記』「寛永二十年癸未」(1643)年に「瀬戸崎御番所初与力衆毎月交代被仰付」とあり、「瀬戸崎番所=白浜町白浜瀬戸浦の番所崎、このときキリシタン船監視の為に設けしもの、田辺住の横須賀与力三十六人に一ヶ月交替で監視せしめ、幕末までこれを続けた。」と解説文が添えられている。「初」と記されているから田辺の安藤家は、この年に白浜の瀬戸崎に遠見番所を設け与力に番人を委ねていたことが判る。続いて同じ書面に、「筑前国大島に伴天連・イルマンが密かに上陸、逮捕し長崎に送った」と記されているから、幕府の危惧が現実になったこの一件によって、紀州藩内での各浦々の出崎に遠見番所を設けるきっかけになったのだろう。
異国船絵図の中のロシア船 ポルトガル船を見張る遠見番所の始まりは、寛永十五(1638)年、島原一揆鎮圧のあと幕府軍の総大将老中松平伊豆守信綱が長崎湊を見分して、長崎領野母日野山権現山上に遠見番所、及び烽火山番所(ほうかさん、長崎を見下ろす斧山山頂、狼煙台の窯跡は長崎市の文化財指定、『白帆注進・出島貿易と長崎遠見番』籏先好紀・江越弘人著)を建てたのが最初だと『通航一覧』(第八・P255)に記されている。

 西南の大洋を一面に見渡せる立地で、ポルトガル船を見かけたらすぐさま奉行所に注進し、長崎より近隣諸国に緊急事態を告げる狼煙を上げる体制を敷いていた。

野母遠見番所の建物は一間半四方と記されているから、四畳半の部屋に詰めて遠眼鏡を覗き水平線を見つめていた。三間に四間の泊まったり食事をする中宿賄所や、霧がかかって海上が見えないとき海岸から見渡す霧番所なる小屋まであった。

 野母遠見番所は外国貿易港の番所だから他国の遠見番所にない特殊性があった。水平線に白帆が見えたら、阿蘭陀船か唐船かポルトガル船かを見極め、いち早く長崎奉行所へ知らせるのが番人の役目で、長崎湊の入り江の出崎に小瀬戸遠見番所、湊内に梅香崎遠見番所、永晶寺遠見番所そこから長崎奉行所立山役所へ伝達された。
 その方法の一つに野母から飛船で注進するやり方があった。野母の遠見番所に阿蘭陀船・唐船・ポルトガル船に分けた三本の印柱があって、阿蘭陀船は阿蘭陀用の印柱に信号旗を掲げ、その印柱を小瀬戸遠見番所が遠眼鏡で確認し注進する制度だった。文化五(1808)年、イギリス艦フェートン号がオランダ船拿捕を目的に長崎湊に不法侵入した大事件の後、石火矢(大砲)を打って知らせる合図にしたが、飛船による伝達が一番確かだったと江越弘人氏に教えていただいた(『白帆注進・出島貿易と長崎遠見番』)。
 番所には「御番所御高札」が掲げられ、前項の件はもちろんだが、その中の一項に「唐船が湊に入り帰帆するとき、日本船が唐船に近寄ると、早速乗り付けて改めること…」と記され、唐船と日本船との抜け荷(密貿易)の監視も番人の大切な役目だった。

 海上以外にも目配りが必要で「他領の山々において不審な煙りを見つけると早速注進する事」などや、番人と水主(かこ・水夫)以外の立ち入り、女人の連れ込み、酒宴・喧嘩・火の用心・博打など御法度が記されていた。
 烽火山頂には日本で一番大きな狼煙台が現存している。直径約11bの大きさで、石垣でもって土手を築き、火を付ける焚き口が3個所あった(江越弘人氏談)。異国船来航のとき庄屋が備蓄している茅や竈付近の立木を切り、日中は煙りを主に、夜中は火勢を第一に焚き上げた。
 狼煙が上げられたのは、正保四(1647)年六月二十四日、二艘のポルトガル船が貿易の再開を求め来航してきた時で、九州の諸藩など五万の軍勢と千五百の船が出陣し長崎湊を包囲し警戒した。それと、文化五(1808)年のイギリス艦フェートン号入港の2回だけだった。

 当時、湊の七個所に台場を築き大砲を備えていたが、二貫四百目一門が最大で、他は一貫目砲だったから一人で軽く持ち上げられる小さな大砲だった(『白帆注進・出島貿易と長崎遠見番』)。
 野母崎は熊野人にとって興味深い処である。熊野神社があり、遠見番所のある山は権現山なのだ。その縁起によれば千三百年前に紀州熊野の夫婦が流れつき開いたという伝説が伝えられ、後に熊野浦から漁師が多数移り住み、人家軒を連ねたそうだ。
 小柳平次氏著の『野母の民俗』を読んで驚いた。現在、絶えてしまったけれど「串本町大島の水門(みなと)祭り」や「熊野市二木島の関船祭り」によく似た船祭りを催していたと記している。それは鰹の模型を作り、船べりで鰹を釣る真似をしたり、接岸すると大福帳やソロバンを持って「売った」「買った」「それでは売らん」などと商いのやり取りを大騒ぎでおこない、男装した女性が登場したりと大島の水門祭りと同じ行事が記述されている。中央の鉾船(鉾回りの鉾立てる)に七艘の船を横繋ぎにしたまま右回りに三回まわるなど、熊野の船祭りで御船が右回りに三回まわっている事とよく似ている。


「紀州藩の遠見番所」

 紀州藩内で伊勢湾側の松阪・白子領を除く各市町村の史誌によると、十七個所の出崎に設けられた遠見番所、それに七十個所以上の狼煙場を見つけることができた。
 串本町古座川右岸に七百年間にわたって暮らしていた小山家の貴重な文書は、『紀州小山家文書』神奈川大学日本常民文化研究所篇・日本評論社刊にまとめられている。
桑山玉州 大島浦遠見番所
 「南龍院様(初代紀州藩主・頼宣公)が熊野へ巡覧された時、当家の由緒を申し上げ、地士に任ぜられ壱拾人扶持を賜う、南蛮吉利支丹船を見張る大島浦遠見御番所役を仰せつかる。」と記されている。
 当家の由緒を要約すると、「先祖、小山実隆は下野国(栃木県・小山庄)より熊野に来た。太平記の乱世の時、吉野の内裏に御奉公。太閤様、朝鮮侵攻のおり、藤堂高虎殿の陣にて渡海。小松原の城主湯川家に仕え、潮崎庄を領地し西向村に住居する。天正年中、湯川家断絶のあと太閤様に仕え知行八百石を賜う。関ヶ原の陣・大坂冬の陣のおり浪人、西向へ帰り住む」このような内容で、小山家の由緒は日本の乱世の歴史そのものである。

 『紀州小山家文書』から大島遠見番所に関する文書を解読してみる。

※「寛文七年二月三日(1667)大島御番所勤役一件につき訴状」
 この文書には不明な個所が数カ所あって、細部についてわからないが内容は番所の記述としては大切である。亡くなった人は「□拾弐年相勤申候」とあり何年なのか分からないが、明暦二(1656)年まで番人を勤めていた。二十二年前からだとしたら1634年になるからあり得ない、でも十二年前だとすると寛永21(1644)年になりつじつまがあってくる。

※「文政九年九月(1826)異国船絵図」
 琉球船、唐船、阿蘭陀船、魯西亜船の絵図がある。各所の番所に各国の船絵図が配布され、番人は沖を通過していく船形からどこの国の船なのか判断していた。

※「四月十六日樫野崎沖にて唐船体の船二艘発見につき注進」
 寛政三(1791)年3月27日、東南の大雨風の荒天の時、樫野崎より東の方から進入。アメリカ商船レディーワシントン号とグレイス号が古座浦の九龍島沖に停泊した時のことで、「日々報告していますが、四月六日西の風にのって出帆、遠見していたが行方知れずになった」という内容で、四月十六日、アメリカ国旗を船尾に掲げた船絵図を添えて郡奉行所、御代官、御目付衆へ報告している。この報告書は事務的で素っ気ない内容になっている。

※「大島御番所詰め等の儀につき書状」
 「私儀、大島御番所勤ながら、御城米難船ならびに御用木・御用瓦難船、その他…新宮下・田辺下へ急御用…古座お目付様へご用相勤め候…」この文書の内容は重要で、遠見番役人の仕事には異国船の監視の他に遭難船の発見と救助を指示する役目があった。

※「弘化三年午年巳来異体舟見請並御国中遠見御番所等其外諸事手鏡」
 弘化三(1845)年より南南東から来る異国船見る。
嘉永六年六月三日、相州浦賀表へ異国船五艘(実際は四艘だった)着岸。
嘉永七年九月十四日、異体舟一艘上ミ筋沖へ、比井浦へ停泊、後日浪花へ港。
     この異国船はロシアのディアナ号で、紀州藩で最も警戒態勢を敷いた。

※「慶応二(1866)年七月朔日 英国海軍提督の命により潮岬灯台建設場所調査につき」
 この艦は英国の船で英国海軍提督より命ぜられ、塩見崎へ燈明台を建てる場所を探しに来た。

※「地士 大島浦遠見御番所役相続及諸役奉職進退録」
 大島御番役人の初代は小山佐次兵衛隆保で、大坂冬の陣で戦死した助之丞隆重の嫡男にあたる。
慶応元年、熊野胡乱者(うろんもの・みだりなこと)改めを命じられる。明治二年四月13日、樫野崎灯台建設の時、御用筋心得命じられる。小山佐次兵衛から14代続いたが、明治二年七月五日、地士並び御番役時勢により廃止になる。

 寛政五(1793)年、熊野を旅した桑山玉州は「熊野奇勝図巻」を描き、その大島浦風景絵図には大島湊の背後の山頂部に小さな小屋が描かれている。そこは遠見番所があったと伝わっている処で、大島の人は木の葉神社 難船絵馬「番所」と呼んでいる。正しくその小屋は小山氏が詰めていた遠見番所なのだ。

 紀伊半島南端の海域は海の難所である。『串本町史通史編』に記載されている「古座組難船文書」(山出泰助氏調査)などや、旧古座役場文書には解読されていない多くの難船に関する文書が残っている。遭難して航行不能になった廻船は、「招き印」を掲げることになっていた。

 「招き印」とはどのような旗印なのか分からないが、『紀州小山家文書』に「御城米、御用木、御用瓦難船…古座御目付様へご用相勤め候」という記述があったように、大島遠見番所の番人は沖を行き交う廻船を一艘ずつ遠眼鏡で見つめていた。

 「夜半過ぎ樫野崎近くに流れきて、招印を上げ候に付き、遠見御番所より見受け、漕ぎ助け船数十艘差し出し、役人衆御乗りの組、万端手配の上、今二十四日朝五つ過ぎ当浦へ御漕ぎいれる」。
 古座古文書研究会代表の谷口哲夫氏は、「紀州藩営の古座鯨方は捕鯨以外にも大きな役目があった。当時鯨船は和船のうちでは最も優れた性能を有し、平素は捕鯨に従事していても一旦事起これば兵船になり、大坂・江戸間の廻船航路の難所である潮岬・大島周辺の海難救助に鯨船を活用していた」と古座鯨方の在り方を語ってくれた。

 「天保五(1835)年二月、尾州の廻船が樫野崎にて沈没、樫野、大島、古座、西向、鯨方にて計百三十二俵海底より掛け揚げ、溺死体五体」(『串本町史通史編』P303)の記述あり、鯨方は沈没船の処理までおこなっていた。
 「古座組難船文書」には、船頭らが難船を装い、荷抜き、切り捌き(内緒で売りさばく)、難船へ漕ぎ寄せ積み荷を盗みとるなど違法行為の記録があり、難破した船は役人衆から不正の有無の取り調べを受けていた。大島浦のえびす講組合は濡れ痛み品の入札規定を設け、難船で得る利益を浦内で分け合っていた(『串本町史通史編』P319)。

 潮岬の潮崎利右衛門家は寛永二十年から代々上野浦遠見番所の番人を勤めてきた。今でも潮崎家には「寛永二十(1643)年、潮之水崎・遠見、御番所御改被成衆覚、上野浦・潮御崎ひかへ」を始め、「慶安三(1650)年、潮之水崎之内、御番所御改帳」・「文化五年、御用状控帳…」等や、小山家と同じような色づけされた外国船絵図、魯西亜国船印図それに竹製の遠眼鏡が伝わっている。
 「明治三年 諸達控(一)江田組郷役所」(『串本町史資料篇』P225)の、「元遠見番所取払申入れに付御達・四月三日」には、「燈明台役所の仰せにつき、当浦元遠見番所のこと、このほど御雇い英人ブランドウが参り、取り払うことになった」、英人とは「日本の灯台の父」であるリチャード・ヘンリィー・ブラントンのことで、潮岬灯台の築造にあたって潮御崎神社は旧社地へ移転し、元遠見番所は紛らわしいので取り壊されたのだった。

「紀州藩の狼煙場」

 「 狼煙山」だとか「狼煙」とか「狼煙場」は各地域に地名として遺っていて、慣れ親しんでいる割にその実態がよく分かっていなかった。
 遠見番所はなにも江戸時代だけではなく、明治、昭和時代にも異国の艦船を見張るのに番所を設け地域の人達は監視所に詰めていた。
 潮岬の「旭の森」には日本海軍の望楼所跡が残っている。日露戦争時、バルチック艦隊の来航を監視していた処だ。第二次世界大戦時にはアメリカ艦船を監視する電波塔施設があって南端の出崎は時代を通じて海防の要だった。
 信じられないことだが敗戦間近の昭和二十年六月十日「第百四十四師団通信計画」に「電気的通信手段全ク破壊セラレルトモ…第五ノ如ク烽火通信ヲ実施セシ得ル如ク準備ス」とした作戦命令書があった(『太平洋戦争と和歌山』川合功一著・東京経済社)。和歌山への連絡手段として江戸時代海防制度の狼煙場を利用した狼煙による伝達方法が作戦として考えられていた。
 遠見番所は寛永二十年以降に設けられた事が万代記や文書によって確認できたが、狼煙場はどうなのだろう。
 『万代記』慶安四(1667)年の「指上申郷之事」には「通之御印判」の記述があり、瀬戸村の通之御印判は二枚あって、その内の一枚は若山への注進用だと記されている。それに「出合のろし場」を定め、「瀬戸通り出山」から狼煙が上がると「北は西谷村・江川浦・田辺町、南は鉛山・瀬戸へ見え申す」、「西谷村天神山」和田浦高粒山狼煙場(美浜町)から狼煙が上がると「北は糸田・伊佐田、東は湊村・敷浦・神子浜・田辺町・万呂へ見え申す」などと記され、田辺領内の各地域を狼煙で次々と繋いでいく制度ができあがっていた。

 『万代記』正徳二(1712)年に「松木四十三本、松葉三十束、小柄竹二束、しゃうれん坊天神山弐個所、狼煙六筋入り用、狼煙番小屋の建て替えをお願いします」という願文が載っている。しゃうれん坊と天神山の二個所の狼煙場に備蓄する松木等の用立ての件で、狼煙六筋は二個所の狼煙台の合計なのだ。紀州藩の海防における狼煙場には三つの狼煙台が設けられていた。一筋狼煙、二筋狼煙、三筋狼煙といった具合で、上げられた狼煙の数によって海防に対応する防備制度が決められていた。

『万代記』正徳五(1725)年、「郷組御定改」には「次々の組を呼び集めるときは、のろしを二筋よく見えるように上げるべき、二筋のろしを上げたときには、左右の組にて一筋ずつ、のろしを上げて隣の組へ知らせ、そのうえ村次をもって、どこの組をどのように救うべきかを決める」と定め、狼煙の上げ方を周知させている。またこの御達しには付け紙が添えられ「これまでの狼煙場は、熊野その外の浦々にて急事起これば狼煙を上げ、見つけ次第、浦から浦へ順々に若山まで上げ繋いでいたが、今は止めて通の印をもって注進することになった…」と狼煙の伝達方法の改変があった。
 『万代記』における狼煙場の初見は慶安四(1667)年の「出合のろし場」の記述からで、各市町村史誌でもいつ頃設けられたのかという記述がない。寛永十五年、野母崎に遠見番所及び烽火山番所を同時期に設けているから、寛永二十年、紀州藩内で遠見番所設営が始まった同じ時期に狼煙場も設けられたと考えられる。

 「有徳公(紀州藩主吉宗、五代目・八代将軍)、浦組法を御改正(『南紀徳川史』)」には「藩内の浦々に異国船が来て、その浦で対応出来ないときは隣郷や遠郷から人を集めること、それでも難儀すれば狼煙を三本上げ若山へ知らせると、助けの軍勢を差し向ける」と記されている。狼煙場から三筋の狼煙が上がった時は、非常事態発生だから、沿岸部の狼煙場は次々と狼煙を上げて、和歌山城へ繋いでいく。
 紀州藩の遠見番所と狼煙場の地図上を線で繋いでいくと、なるほど狼煙ラインはきれいに繋がっていくが、一部の出崎の狼煙場と次の狼煙場間の連携が難しい個所もある。まだ遠見番所や狼煙場を設けてなかった、「寛永十七年の書き上・古座組大庄屋文書」には「手形とご印判を添えて、夜中に限らず近くの伝馬所へ伝える」と定められていたように、以後の狼煙場設置後においても狼煙に依る連絡網の不確実性を分かっていたようだ。
 有徳公(吉宗)は、各浦組をい・ろ・は・に、と定め、それを纏・提灯に印し、浦内の十五歳から六十歳までの男、馬何匹、船何艘、弓・鉄砲・槍・長刀などの具合を浦組帳に記し、「通之御札」を鯨船・漁船などで和歌山へ伝える仕組みで、大庄屋の下、農漁民達による海防制度を再編成させた。
 元文四(1739)年五月十九日、吉宗公が八代将軍の頃、奥州・仙台の大島の沖に異国船が来航、島の人々は魚・水・塩付けしたキュウリ等を異国の持ち物と交換した。

 『元文の黒船』(阿部宗男著・宝文堂)の記述は、「異国船の記録によると、彼らは北緯三十三度二十八分の地に投錨し、船員の一部がこの地に上陸し、橙の木や真珠貝を持ち帰ったとある」、著者は緯度からしてその地は紀州の勝浦だろうと考えている。それに三十分の辺では「…岸からボートが現れて…の連絡を禁止した。ボートには刀を帯び、手にピストルを持った武士が座っていた」しかし熊野地方で、このような記録は全く見あたらない。北緯を精査すると二十八分は樫野埼で、三十分は古座浦にあたる。後に、譲り受けた品々を阿蘭陀人に見せたところ魯西亜人だと分かった。
 魯西亜船の出現、西海では唐船による抜け荷(密貿易)の発覚があり、抜け荷を取り締まる通達も発令されている。寛永十六(1639)年七月五日発令の「吉利支丹禁教、ポルトガル船の来航を禁止」以来、安永年間(1772)から寛政(1789)年間頃までの百五十年間、紀伊半島沿岸部への吉利支丹船の来航記録は無く、何事も起こらなかった。
 それにしても出崎の突端で異国船を見張っていた番人はさぞかし暇をもてあました事だろう。『番所山』(宮崎伊佐朗著)によれば、田辺安藤家の領地に住んでいた紀州藩主直属の与力三十六名は、一ヶ月交替の輪番で黒船を見張っていた。彼らは「弓の稽古をしたり、山を降りては磯づたいに釣り糸をたれ、なかなかの大物をよく釣り上げたそうである。
遊木狼煙場(熊野市) 
 しかし、安永二(1773)年、佐野組の大指出帳には「狼煙(仮ヶ峰)一ヶ所、狼煙もやし、三輪崎徳三郎、太兵ヱ」(『新宮市史』P195)の記述があって、異国船発見の狼煙が上げられたと記されている。この頃から、紀州沿岸に異国船の出没が見られるようになった。
 『新宮市誌』年表に「寛政元(1789)年5月5日、アメリカ船三輪崎に来る」と記されているし、冬には串本町津荷のオオハイ磯に南京船・朱心如ら船員七十七名乗りが漂着、土佐藩の役人も乗り込んでいて、土佐で取り調べ中に流されたということだった。翌年無事に土佐へ送り返した(『熊野巡覧記』玉川玄龍著)。

 さらに、寛政三(1791)年三月二十七日(『外国通覧』では三月二十六日)、東南風の時化(しけ)の時、大島内海に二艘のアメリカ船が入港、九龍島沖に停泊した。彼らは北西アメリカ沿岸のインデアンから仕入れたラッコ等の毛皮を中国・広東へ売りに行った帰りで、未開の地に航海して交易の物産を求める冒険商人だった(稲生淳著「米国商船レディワシントン号の紀伊大島寄港とその歴史的背景」『熊野誌』四十四号・山出泰助著「初めて日本に来たアメリカ船レディワシントン号の来航」『熊野誌』四十三号)。十一日間停泊している間、大島に上陸して薪を採り、ホースで水を汲んだり、毎夕、火砲を二、三十発放っていた。一艘の長さは十間ばかり(十八b程)、もう一艘も八間ばかり(十五b程)の小船で、怪しい程のことはない。古座組から二艘の小舟を遣わしたところ、乗組員の中国人が「紅毛船(オランダ船)で、地名は花其載、銅・鉄並びに鉄砲五十挺を積み皮草国へ行くところだったが、風波にて漂流、好風が吹けばすぐに去る。船主は堅徳力記」との返書を差し出した。翻訳したのは古座組の医師で『熊野巡覧記』の著者玉川玄龍だった(『串本町史史料篇』)。驚いたことに、アメリカ側の調査によって船長の名前が判明、「ケンドリック」船長で、まさに「堅徳力記」だった。
  この非常時に、大島の狼煙場から狼煙が上げられたという記録がない。大島の内海に入って九龍島沖に停泊したとき、時化だったから狼煙を上げることができなかったのだろう。現在の日付だと四月末で、もう北西の冷たい風は吹かず、南風よりの時化になる天気が数日間隔で繰り返して初夏へと季節の変化する頃だ。
 彼らは怪しまれないように、紅毛船つまり阿蘭陀船だと告げているから、日本の貿易制度を理解していた。
 和歌山城へは浦組の御定め通り「通之御札」を繋ぎ伝達したはずなのに、和歌山城からの軍勢の出陣は遅く、串本に到着したのは四月八日で、ケンドリック船長のレディーワシントン号とグレイス号は、二日前の六日にハワイ経由で北西アメリカへ向けて出航した後だった。
 この間、浦組の責任者で古座組大庄屋・中西理左衛門は眠れない日々が続いたという。串本町津荷の文書『時事記』には「御定めの通り弓鉄砲を構える」と記されているから、古座組の旗印「つ」を掲げ守備についていたのだ。
 この年、九州沿岸の各湊にイギリス船アルゴノート号が出没していた。この船もレデイーワシントン号と同じ冒険商人で毛皮の交易を試みたが、たくさんの小船に囲まれ追い払われている(『日本1852ペリー遠征計画の基礎資料』チャールズ・マックファーレン著渡辺惣樹訳)。

 寛政四(1792)年、魯西亜国のラクスマンが漂流民だった紀州藩勢州白子村の大黒屋光太夫らを連れて根室に来航、通商を求めたが長崎での交渉を約束する信牌を与え帰国させた。この後、文化元(1804)年九月、魯西亜使節・レザノフが長崎湊に来航、通商交渉は半年間に及んだが実ることなく三月二十日帰国していった(『通航一覧第七』)。それから直ぐに魯西亜は日本の千島列島の南の島を攻撃。文化五(1808)年、潮岬潮崎家文書『遠見番所 御用状控帳』には、「おろしや船取り計らいの事、…蝦夷の島々に来て狼藉に及ぶ。近づいて来たら召し捕り、打ち捨て、油断しないように…」とロシア船に対する注意が記されている。紀州藩からは「魯西亜国船印」、「魯西亜船絵図」を遠見番役人に配布していた。

 冒険商人達の商船、アメリカ・イギリスの捕鯨船、西欧の探検船や通商を求める船など日本近海に異国船が盛んに来航するようになって、蝦夷の島々や各地でトラブルが起こっていた。小船に乗り水・薪・食料を乞うたり、廻船の米を略奪したり、島に上陸して野牛を奪うなど海賊行為が横行していた。文政八(1825)年、貿易を認めている阿蘭陀船、唐船等以外の禁制の異国船を撃退する「異国船打ち払い令」を発令していたが、アヘン戦争で清の敗北を知ると天保十三(1842)年、「薪水供与令」に切り替えた。
 嘉永元(1848)年、大島の遠見番人は「大島沖に、帆柱から煙りを立てて航行する不審な異国船を発見した」蒸気船の初見だった(『串本のあゆみ・古代より江戸時代まで』P371)。
 嘉永六(1853)年 六月三日、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが浦賀に来航して幕府に通商をせまった。アメリカ捕鯨船員の保護、蒸気船の石炭貯蔵施設の設置、水・食料品の補給、中国貿易の寄港地として日本の港は、アメリカにとって貿易の拡大を図るのに重要だった。アメリカ艦隊は半年後の来航を告げて六月十二日に出航していったのだった。

「狼煙は上げられた」

 六月十七日、大島浦・森戸崎狼煙場で周参見代官所による狼煙場見分が内密に行われた。「大島浦・森戸崎の狼煙場に備えている狼糞は年月が経ちすぎ、狼煙上げに使用できなくなっている。お申し付けの通り、狼糞の拾いを山内の者達に命じていますが、なかなか御用意出来ません。でも肥松は相整え用意しています」(旧古座町役場文書)。古座組の狼煙場では狼煙を上げることがなかったので、備え付けの狼糞は古くて使い物にならなくなっていた。
 アメリカ艦隊の来航は阿蘭陀・カピタン(商館長)の風説書によって分かっていたが、いざ入港して開国をせまられると紀州藩にとっても非常事態の発生である。
 古座川の奥山へと狼糞探しが行われた。しかし、もうこの頃でも日本狼の生息状況は少なかったようで狼糞拾いは難航した。
 八月、「手前ども、人足を仕立て、日々狼糞を拾いに山内へ入っております。しかし、今もってさっぱり拾うことが出来ません。怠けているのではありません。百姓・木こりに得と言っています。日本狼は夏・秋に山内をうろつかず、冬になったら出歩くのでしばらく待ってください」古座組大庄屋・橋爪周輔は周参見代官所・木村五郎太夫に言い訳の文書を提出している(「旧古座町役場文書」『熊野の日本狼と黒船』拙稿)。

 狼煙を上げるのには肥松と松葉と狼糞が必要だった。肥松は一般的にほとんど目にすることはない、山の尾根筋などに朽ち倒れている松の木で、堅い芯が残っている骨樹で、芯を削ってみると赤茶色の樹脂をたっぷり含んでいる。現在、肥松を狭い部屋で燃やして、墨の原料になる松煙の煤を採っている。田辺市大塔で多彩な松煙墨を制作している「紀州松煙」の堀池氏は「肥松を燃やすと黒い煤を上げてよく燃える。だから普通の樹木を燃やすのとでは煙りの上がりが違う」と教えてくれた。
 「狼煙を上げるのに狼の糞を燃やす」、「狼の糞を燃やすと煙はまっすぐ上がる」、「狼の糞なんて、あり得ない」などと言われ、普通に考えてみても狼の糞を燃やす狼煙場など思いもつかず、狼糞そのもの自体の存在を疑っていたから、狼煙場の存在まで伝説化されていた。でも確かに、紀州藩内の山奥に日本狼は生息していて、狼糞は拾われていた。古座組で狼糞を拾えなかったように、旧海山町の白浦でも狼糞が入手できず、他の組へ応援を求めた文書が残っている(『海山町史』)。
 有田川町教育委員会保存文書の中に狼糞の存在を証明する文書が収蔵されている。この地域の大庄屋を勤めていた堀江家に伝わる『堀江文書』である。

 「嘉永六年丑六月・宮原組宮崎狼煙へ御入用狼糞拾ひ人別名前帳 ・山保田組大庄屋元」には拾い集めた狼糞の目方を記している。

  正味七拾目 上湯川
  同四拾七匁 下湯川村弁助
  同九匁 是は無印ただし油紙包
  同弐拾五匁 下湯川村平兵衛

…… ……
 「狼糞目方並拾ひ人足ニ付覚帳」
七月二十四日
壱 工   平兵衛
七月二十四日 八月十九・二十日
三 工   久三郎
八月八日・九日
弐 工   弁助

……  ……
 以上弐拾工半

   右の者 七月八月 狼糞拾いを仰せ付けられ、所々で拾いお納めます。
     あいかなった賃銭をお下げください。お願いいたします。

                              下湯川村 肝いり
                                             利平
   御役所


……  ……

 その外、「嘉永六年丑八月・狼糞拾ひ方人別名前覚帳」そして「嘉永七年寅三月・狼糞…」などがあり、各村民に拾い集めさせた狼糞をその村の庄屋が集め、そして大庄屋の堀江亀之助に納めている。
 護摩檀山の山麓に暮らす村民達が山野を駆けめぐり狼の糞を探し歩き、苦労して集めた狼糞は宮崎の狼煙場をはじめ各狼煙場へ配布されたのだろう。
 狼糞について、日本オオカミ協会長・丸山直樹氏に尋ねると、モンゴル草原でオオカミの生息調査時の狼糞の写真を送っていただいた。カルシウムを含んだ糞は白っぽく、ひと目でオオカミの糞だと分かるそうだ。私ごとだが、以前飼育していたアラスカオオカミ94lのオオカミ犬は、鹿・猪のアバラ部などが大好きでアバラ骨をかみ砕いて食べていた。
 紀州藩の海士御代官仁井田源一郎は多忙だった。アメリカ艦隊の来航以来、紀州藩は異国の艦船に対応する「海防議」なるマニュアルを作成した。『串本町史史料篇』「嘉永五年子四月・有田浦小入用帳・有田浦人足札」は有田浦の日記のような文書で、嘉永六(1853)年十一月十四日、仁井田源一郎様浦組御見分の節。嘉永七(1854)年三月十九日、御鉄砲方御役人衆十人、台場御見分之節。安政二(1855)年四月十六日、仁井田源一郎様御泊まり、御宿常七入り用の記載が見られる。仁井田源一郎は沿岸部の要衝に台場を設けることを定め、藩内の各地を見分し巡視していた。

 嘉永七(1854)年、再来したペリー率いるアメリカ艦隊と三月三日、日米和親条約を結び、事実上開国していた。しかし嘉永六〜七年が紀州藩にとって、最も異国船に対する海防体制の強化が議論され、固場・お台場の設営と防備に必死だった。
 大島浦遠見番人(『紀州小山家文書』)は、嘉永七年九月十四日七ツ過(午後四時過ぎ)、「異体の大船、帆を巻き上げ、三里の沖を上ミ筋へ向かって航行、夜になって船形分からず、その夜比井浦沖へ停泊いたし、後日浪花(大坂)へ停泊したことを知る」このとき「通之御印判」は伝達されたのだろうか。南端の沿岸海域に現れた異体の大船は、一番危惧していた魯西亜船でプチャーチン率いるディアナ号だった。
 九月十六日、宮崎の鼻狼煙場から狼煙が上げられた。それを受けて、大崎・荒崎山狼煙場からも狼煙が上がり、紀三井寺毛見崎狼煙場、雑賀崎狼煙場と次々に狼煙が繋がって、和歌山城へ伝わった。「松平八輔が指揮する一の手が、出動して、有田及び加茂谷の浦組を中心に防備の部署についたので、かなり敏速な動員を行っている」(『下津町史通史編』)。

 紀州藩全域の沿岸の要衝で、兼ねてからのお定め通り浦組や藩士が総動員され、二万四千二百七十四人が防備についた。寛永十六年から始まった郷組、その強化を図った浦組制度を定めて以来初めてだった。
 ディアナ号は九月十八日から十月三日まで大坂湾に停泊し、四日、食料買い込みのため加太浦に入った。本藩の応接係の役人三名が乗船して漢文をもって筆談した。紀州藩を震撼させた魯西亜艦の来航は何事も起こらず、五日加太を出航して、六日には遠くへ去って帆影も見えなくなった(『和歌山県誌第一巻』)。ディアナ号は下田に停泊し日露和親条約の交渉中に、嘉永七年十一月四日、大地震(安政元年の地震)による大津波によって沈没。十二月二十一日、日本とロシア帝国は択捉島と得撫島間を国境とする日露和親条約を締結、紛争を解決して新造された洋式艦で帰国の途についた。しかし現在、周知のように北方領土は占領されたままだ。
 この時、上げられた狼煙について記述が『下津町通史編』にあるので抜粋してみる。
「大崎の狼煙場は、荒崎の山上の中央に二間ずつ間をおいて三個の狼煙台があり、その構造は松の丸太で長さ二間あまりの棒の先を尖らし、その周囲を松葉で囲み、下は径二間半くらいに丸くして積み上げ、上のほうへだんだん円を小さくして安定させた。狼煙を上げる時は狼糞を入れた竹筒を尖った松の先に差し込み、松葉に火を放つと火柱が高く上がり、遠方から見られるようにしたもので遠見番人によってこれが行われた」と記されていている。

 尾鷲市三木里の木名峠に直径二bあまり、高さ六、七十aで円形に石組された狼煙台が三基並んでいる。解説看板の海防・狼煙場の説明文には「狼糞を一カ村三升五合から五升、松葉六十貫…」と記されている。一升瓶に入れた狼糞のイメージが抜けず、狼糞をどのようにして燃やすのか一番の疑問だった。狼糞を狼煙の着火剤としていたと考えていたが違っていた。どうやら竹筒に詰められた狼糞は狼煙を焚き上げるとき、煙りが真っ直ぐ上がるという呪力になったのだろう。
 遠見番人はあくまで航行する船や狼煙場のある半島から煙りが上がっていないか等を見張る役目で、狼煙場には「狼煙立て」として近隣の百姓が二〜三名詰めていた。その上げ方には秘伝があったようで、「文化六年『御用留』によると狼煙仕方の指導者・熊沢文衛様がこの度お越しになり、浦方大庄屋衆に狼煙の上げ方を伝授した。また狼煙立ての者にも伝授した」と記している(『尾鷲市史』・P494)。

「伴天連・吉利支丹の船は一度も来航しなかった」

 寛永十六年、吉利支丹宗門禁教、ポルトガル船の来航禁止から始まった伴天連の密航を見張る為の海防制度は、年月が経つ程に形骸化していったり、異国船の来航問題が起こるたびに復活したりしながら幕末期の開国を迎えることになった。
 外国貿易の開放は一気に進み、安政三(1856)年にはアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアと修好通商条約が締結され、鳳凰丸の建造、長崎海軍伝習所の開設、オランダから蒸気軍艦咸臨丸・開陽丸等を輸入、オランダへ留学生の派遣、といった西洋化された海防体制へと変化していった。

 文久元(1861)年九月二十一日、大島浦にイギリスの軍艦が入港してきた。公儀の軍艦奉行が乗り込み、イギリス人が上陸しては所々に白い目印を塗り、浦神湊へ入ったりと熊野沿岸の測量をしていた。時の変化には驚く、古座浦の人達は船を仕立て橋杭岩の側に停泊していた軍艦へ漕ぎ寄り、乗船して船内の見物までしている(熊代繁里・『熊野日記』)。
 文久三(1863)年六月十四日、将軍家茂は軍艦奉行勝海舟を伴って蒸気軍艦にて大島浦に寄港、無量寺に宿泊している(『串本のあゆみ』)。
大島浦・上野浦の遠見番人は時代の移り代わりを感じていただろう、『慶応四辰正月吉祥日・御用船の控・潮崎利右衛門代』の文書は潮岬沖を航行していく戊辰戦争時の蒸気軍艦の船形、搭載している大砲の数を淡々と記録している。

 南端の海域は航海の難所で廻船の遭難も多発していたし、各国は日本へ自国品を安全に輸出するには日本の海路の要衝に灯台が必要と感じていた。アメリカ・イギリス・フランス・オランダと幕府は江戸条約(慶応二年・1866)を締結して、八ヶ所に灯台の建設を認めさせた。その二ヶ所が潮岬と樫野埼灯台で、樫野埼灯台はリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計・監修によって、明治三(1870)年六月十日に初点灯した日本最初の石造り灯台なのだ(稲生淳著「外国人が見た幕末・明治の串本・大島とその地理的位置ー灯台技師ブラントンの来日にも触れながらー」『熊野誌』四十五号)。石は古座川産の宇津木石で、灯台の白亜は串本沿岸部で採れた珊瑚を焼いて粉にした漆喰を塗っていた。潮岬の灯台は最初、木造灯台だったが同じ日に仮点灯した。これらの灯台は当初の目的とは裏腹に日本の発展に寄与することになった。明治の八、九年の頃、神田文左衛門が公用で上京するとき、樫野埼の灯台守から外国船へ停船信号を送ってもらい、八丁櫓の鯨船で漕ぎ寄って横浜まで便乗したという信じられない本当の話がある(『串本のあゆみ・明治篇』)。
 キリシタン禁教・ポルトガル船の来航禁止から始まった海防体制強化の、遠見番所と狼煙場の制度は明治二年廃止になったが、海防体制二百三十年間中、伴天連・吉利支丹を乗せた異国船は紀州沿岸に一度も来航しなかった。

 一方、明治三年一月、木本浦脇の浜(熊野市)に一艘の和船が入港してきた。乗せられていたのは、紀州熊野に流されてきた隠れ切支丹たちだった(中田重顕著「熊野の隠れ切支丹娘」『海の熊野』谷川健一・三石学編)。幕府はたびたび吉支丹御法度の高札を掲げ民衆に周知させていたのに、九州各地での隠れキリシタン達は脈々とその信仰を続けていた。 
 「熊野の隠れ切支丹娘」によれば、鎖国制度の廃止(嘉永七年・1854)後もキリシタン禁制は続いていて、慶応三(1867)年、長崎奉行所は浦上村の隠れキリシタン達を逮捕した。
 明治新政府は強引に神道国家主義を推し進め、仏の教えを捨てる廃仏毀釈を強行しつつ、邪教であるキリスト教を密かに信仰していた隠れキリシタン四千人を各藩に流罪し、紀州藩には二百八十九人が流されて、その内三十二人の老若男女を奥熊野へ流してきたのだった。
 明治六(1873)年二月、新政府は信仰の自由を認めることになった。なんと、キリスト教信仰を守り続けてきた隠れ切支丹達は二百年以上も苦難の日々を過ごしてきて、やっと解放されたのだった。

大島の人は言った。「港の背後の山は、日和山ていうんや。そこに狼煙場があったんやと。平見には遠見とか狼煙ていう地名もあるで。東よりの高い処が番所やの」。


【協力いただいた方々】

内山裕紀子氏(くまの体験企画)、谷口哲夫氏(古座古文書研究会代表)、山本賢氏・坂下誹実氏・深見泰治郎氏( 和歌山県文化財保護指導員)、水島大二氏(和歌山城郭研究)、田垣喜久雄氏(玉城町史編纂室)、平岡繁一氏(海南市郷土史家)、仲江孝丸氏・神保圭志氏・生熊和歌子氏(大辺路刈り開き隊)
白浜町教育委員会 松阪市教育委員会文化課 広川町教育委員会    

【参考文献】
   万代記
串本町史・資料編及び通史編
紀伊国北牟婁郡誌
熊野市の文化財
三重県郷土資料
紀伊長島町史
郷土むかしばなし 郷土叢書第一集
鎖国と海禁の時代
串本のあゆみ
和歌山城郭研究第 遠見番所・狼煙場
紀州小山家文書
御坊市史第一巻
新宮市誌
和歌山県史近世
熊野日記 熊代繁里
和歌山県誌第一巻
日高町誌 下巻
すさみ町史
日置川町史第二巻 近世篇
下津町史 通史篇
紀伊東牟婁郡誌
通航一覧  第一〜第八
新宮市史
封喉 狼煙山 海山郷土研究会
時事記
和歌山研究
海山町史
尾鷲市史
熊野市史上巻
奥熊野街道 金山の史話
ふるさとの石造物 郷土叢書第三集
尾鷲市の文化財
紀伊続風土記
海の熊野
和歌山城郭研究第二・第三・第四・五号
南紀徳川史
紀伊南牟婁郡誌
太平洋戦争と和歌山
日本一八五二
日高近世史料
近世漁村の史的研究
幕末海防史の研究
さむらい異文化交渉史
江戸の外交戦略
西海鯨鯢記
白帆注進 出島貿易と長崎遠見番
野母の民俗
御浜町史
紀宝町誌
熊野巡覧記
元文の黒船
復刻新熊野風土記
わが名はケンドリック・来日米人第一号の謎


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