サンゴの意外な利用法



「紀伊山地の霊場と参詣道」が、世界遺産に指定されて早くも今年で5周年を向かえる。吉野・高野山・熊野三山を結ぶ参詣道、大辺路・中辺路・小辺路・伊勢路、高野山町石道、それに修験者達が霊峰を駈ける大峯奥駆け道。
 大辺路はというと、巷に出回っている熊野古道ガイド本での扱いは、伊勢路・中辺路に比べて「参詣道」としての扱いは低く、少し歯がゆい感じだった。 最近、リュックを背負ったウオーク姿の夫婦や4・5人のグループを沢山見かけるようになった。ここに来て大辺路はやっと熊野古道・参詣道として一般に認知されてきたようだ。


 大辺路の魅力は、長井坂から見られる大海原の絶景に感嘆したり、みさき道を辿って行った潮岬の突端で、本州最南端の丸い水平線の彼方を想像したり、日頃感じる事のない磯の香りを満喫できる磯道歩き、海岸部に軒を並べる迷路のような漁師町の探索、それに、海岸部からたった一山入っただけで山奥の風情漂う山村の、四季おりおり道端の草花を楽しんだりと、欲張りな古道ウオークを楽しめるところだ。

 それに歩いていると、波を創る「風」・草木を揺らす「風」・心地のいい「風」・冷たい「風」等と「風」が気になりだすと、いろんな所から風の音も聞こえてくる。そして自分も自然界の草花と同じなんだな〜と感じる事が出来る。

 枯木灘・熊野灘の海辺に暮らしている「灘の人」は、毎日の風の向きをなにげなく察知して、その日の天気や明日の天気を予測する。紀伊大島は江戸時代から明治にかけての帆船の時代、「風待ち」・「潮待ち」そして水の補給、船乗りの休息・当地の物産や他国の輸出入の良港として大変栄えた。
 港のすぐ上の山を「日和山」と呼んでいる。見晴らしのいい山頂から熊野灘・枯木灘が良く見渡せる。船乗りたちはこの山頂から航海の日和を予測して出航していった。


 風を感じるということの重要性は、「やまぜ返しの、西しゃ怖い」という戒めが現代でも重要視されているように、危険な天候を感じ予測することであると思う。はるか昔、浜の宮の補陀洛山寺の渡海僧はこの危険な風を待っていた。初冬のある日、急な天候の変化で吹き出してくる北西の強風で、生きながら彼方にある観音浄土へと向かう捨身行を行う為である。  
 妙法山と光が峰の山間から吹き降りてくる冷たい山越しの強風は那智湾に沿って集まり、沖にむかって吹き抜けていく。渡海僧を乗せた渡海船は、那智湾の口にある「綱切り島」まで曳航され、この島の辺りでもやい綱を切られたようだ。
 帆を張った渡海船は、那智の御山から吹き降りてくる山越しの強風に乗ると、あっと言う間に流されて、彼方にあると言われている観音浄土へ向かっていったのだろう。

 コチ(東風)が吹いて海が荒れてきたら 、「日和は落ちに」なってくる。 朝から一日 雨が降り続いていた夕方、雨が止んで、空がアカって(雲が切れて空が明るくなってくる)「カワセの風」(西の風)に変わったら、明日の天気はよくなると相場は決まっている。
 他にも風は、マゼ(南風)・イサナ(南東の風)等と漁師の風の呼び名が一般的になっているけど、あまり知られていない「トキヨ」と言う風がある。初夏の天気の良い日、朝方風が無かったのに昼頃から吹いてくる風のことで、夕方になると止んでしまう。なんてことはない・・体をすり抜けていく西風を感じたら・・そっとつぶやく「トキヨ」だ。 
                                       
  「トキヨ」の風が潮岬の段丘に添って海から吹いてくる。串本西海岸の高浜の辺りを串本の一般の人は、「錆浦」(さびうら)と呼んでいる。しかし有田の年配の人はサビウラと言わず、サンピラなんて自分達しか分からないような呼び名で言う。この辺の磯はサンゴだらけだ。ワッパ(水中めがね)をかけてひと潜りしたら、海中はテーブルサンゴの大群落が幾重にも連なり、そこを住みかにしている熱帯魚が乱舞している。透明度もバツグンなのでシュノーケリングするには最高のポイントである。地元の人はこのサンゴのことを錆(さび)と呼び、錆がたくさんある磯なので「錆浦」なのだ。 

 ご存じのように、今から37年前にできた串本海中公園センターがある磯のことで、海中公園センターには水族館・海中展望塔・串本ダイビングパーク・半潜水型海中観光船「ステラマリス」等ここへ行けば串本の海の生き物の全てが分かり、服を着たままでテーブルサンゴ等海中の様子をひと目で見られる。
 潜っていって、テーブルサンゴにそっと近づいて見つめると、イソギンチャクのように呼吸するような動きをしているから、サンゴは生きているんだということが納得できる。でもサンゴを触ってはダメだ。錆色?をしているサンゴは一見堅そうに思えるけど、もろく割れやすい。

 錆浦から田並にかけての海岸段丘の落ち込んだ出崎の海は、潮岬に向かって遠浅状態の岩礁になっていて、テーブルサンゴやキクメイシ の群落が水深10bから15bまで続いている。それに、潮岬西よりの水深10bの海底には不思議な岩礁がある。 もう35年も前の事だが、 知り合いの漁師に「魚の多い良い瀬」があると教えてもらい、瀬のありそうな海域までボートに乗って行き、「山をたてて」ピンポイントで潜った。驚いた事に、その独立した岩礁帯はサンゴの死骸のような岩で形成され、小学校の校庭程の広さがあって、熱帯魚やクエ・イシダイ・などの磯魚の住みかになっている。その岩礁のサンゴ礁のようなすばらしさは、スキューバダイビングを楽しんでいる者にとって新発見だった。今、この岩礁は串本を代表するスキューバダイビングのポイントに なっている。
 串本西沿岸海域は、高緯度に在りながら世界最北の大サンゴ群落があるとして、平成17年11月ラムサール条約湿地に登録されたし、日本各地のスキューバダイビングの愛好者にとって、魅力のある海域である。

 古座組に在住していた医者であり学者だった玉川玄龍は、寛政六年(1794年)に記した「熊野巡覧記」という熊野案内記の一節に「田並より江田へ二十町・此所石灰を焼業とす。・・」と記している。「石灰」と書いて「セッカイ」と読まず「イシバイ」と読む。この「石灰の焼業」というこの生業は、ラムサール条約に登録された海域だからこそ成り立った。
 「この所」とは田並地区のことで、前述したように田並の海域にはサンゴが沢山ある。 「石」とはサンゴのことで、「灰」とは「サンゴ」を焼いて出来る「漆喰の粉」のことだ。

 国道に面したところに、立派な石垣の竹中家の屋敷が目にはいってくる。竹中三郎右衛門家は往時からサンゴを焼いて漆喰の粉を製造していたので、「灰地」と言う屋号で呼ばれていた。
 この「石灰を焼業とす」とは、どのような生業だったのか、ようするに石灰鉱山から採れる石灰岩は、数億年前の珊瑚礁や貝殻等の堆積した地層だと言うこと、石灰岩から石灰が採れると言うことは知っていた。つまり、サンゴである石を焼くと、イシバイと呼ばれている石灰が出来ると言う訳なのだが、なかなか理解しにくい。  
                                 
 串本町史によれば、「灰方」として「石灰の焼き業」が最初に見受けられるのが「苫草場争論に付願口上」(寛延三年・1750年・串本町史・史料編・P251 )で、「田並の上村が苫草を刈り取ったところ、九月二日、下村の者が200人も上村に押しかけ、苫草をよこせと上村の者に乱暴をはたらいた、・・・」、として上村の庄屋・常蔵が江田組・大庄屋・浦儀左衛門 へ提出した 訴状の内容で、最後の方に「上村は貧しいけど、下村はいさば・漁船・灰方・諸職人・諸商売多く後座候・・・」と書かれ、下村は豊かであると記されている。
 苫草とはこの地方の方言で「チガヤ」・「ツバナ」のことを指すようで、牛の飼料か野菜畑の敷きワラに利用したようだ。 また別に、苫草とはカヤつまりススキのことで、屋根に敷いたり、炭俵に利用したようだ。 「灰方」も「灰」を運搬するのに、苫草を利用していたのだろうと想像していたが「灰」は「粉」である。余程細かく編んでも 隙間から「灰」が吹き出てしまうから、苫草は「灰方」での梱包材料として関係なさそうだ。

 その梱包材料について、ちょっと以外な記述を見つけた。「古座地方近現代史年譜」(山出泰助編著)によると、「明治九年(1876年)「古座二歩口役所の古帳簿271点は、西向土井甚七が買い取り、有田浦の石灰業者に売却された。灰袋に使用のためという。これら古帳簿の中には、古座鯨方の諸勘定や貴重な産業関係記録が含まれていた」。残念なことだが、これこそリサイクルの手本そのもので、「灰」は紙袋に入れられていたことがはっきりした。

 「江田組村数宿数戸数人口物産取調御達帳」(明治4年・串本町史・史料編・P139)によると、江田組内の熊野街道における宿は6カ所だとか、各地区の戸数と人口・橋梁23カ所あったとか、各地の物産が記されている。鰹節(三千百五十貫 )・石灰(一万二千俵)・炭(六千俵)・薪木類(二十八万貫)・ハゼの実(百五十貫)ヨモギ(六万枚)等、現代と物産の品が随分変化しているのが分かる。石灰の一万二千俵の産出浦は、田並浦、有田浦、江住浦 と三カ所が記されている。

 昭和40年頃まで、田並の尾古貴(おこぎ)という出崎で岡田さんが、錆浦では東出光路(76歳)さんが石灰を焼いていた。東出さん宅は海中公園の真ん前で、庭先に「灰窯」があり親爺さんの代からサンゴを焼いていたが、「灰窯」が昭和42年の国道拡幅工事に掛かったのを機会に辞められたそうだ。

 「石灰」について、「熊野巡覧記」を読むまでこのような生業があった事を知らなかった。 田並地区を中心に語り部をしている河野九一先生に、石灰について話しを聞いたことで興味を持ち、調査することになった。
 話しの中で、田並の尾古貴という出崎には岡田さんが使っていた「灰窯」が現存しているというので、先生に案内してもらった。

 熊野古道・大辺路の「有浦・田浦・境界石柱」から海岸へ向かって平見を歩いて行き、途中、久次郎さんが開墾した「久次郎平見」も通って、両浦の境界である突端の磯に降りると、浜にも両浦を分ける境界石柱があった。
 江戸時代、両浦の境界線を巡って争い事が絶えなかったが、天保年間頃に和解して山と海岸に境界標柱を設置したという。
 「灰窯」は磯辺のトベラやアカメガシワなどが繁る、藪の中にそのままの状態で遺っている。忘れられていた40年間の間に草木が生い茂り、どこにあるのかも分からなくなっていた。

 簡単にどのような窯なのか説明しようとすれば、天井のない炭窯といったイメージだ。人間が屈んで入っていける「焚き口」があって、窯の高さは約2b、窯の直径は約2.8bで円形というよりU字形だ、内部はレンガ作りで床には、空気の通りを良くする溝がある。
 溝の外側にはエントツがあって、窯を囲んだ土手の木々を整理すれば今で使用できそうだ。側には納屋が朽ち果てていて、小さな風呂桶のような物の横には、枕くらいの大きさのサンゴが沢山集められている。

 サンゴは全て菊目石ばかりで、先生は「焼く石と言うのは、菊目石のことでの、まだまだ焼くんやったかして、ようけ集めた〜るの〜」。此の海岸の浜はおびただしい数の菊目石で覆われている。
 ここに限らず、錆浦一帯の浜は打ち上がった菊目石やテーブルサンゴのかけらで白いサンゴ浜になり、海とのコントラストがきれいだ。

 錆浦で民宿を経営されている東出さんに、どのようにして「石灰」を焼いていたかを教わった。まず原料である菊目石やテーブルサンゴのかけらを浜で拾い集める。前述しているように、窯の大きさから推定すると菊目石の量はかなりである。出埼を行ったり来たりして浜に打ち上がったサンゴを集めるのに一ヶ月から二ヶ月も掛かり、集まらない時は海中のサンゴも採ったそうだ。 百姓仕事もしながらだから、多いときで一年間に6窯、少なくて3窯程、焼いたそうだ。尾古貴の窯の大きさから推定すると、一窯焼いて得られる石灰は約200俵(1俵・セメント袋)ぐらいになる。東出さんの窯は高さ3.20bで直径も3.20bあって、尾古貴の窯より一回り大きかったから、約300俵程になったという。

 次に燃料集めだ。燃えやすい杉柴、杉、檜を山から切り出し薪にする。ウマベカシ等の雑木は炭になって残るので、石灰が黒ずみ、石灰窯の燃料には適さないそうだ。
 良い天気が4〜5日間が続くと判断したら作業に掛かる。底の焚き口に燃えやすい杉柴などを敷き、端材を燃えやすいように置いていく、その上に直径3〜5aの大きさに砕いた菊目石やテーブルサンゴの欠けらをバラバラと敷いていく。またその上に薪を重ねていき、菊目石等をバラバラと敷く、この様にしてサンゴ石と薪のサンドイッチの層を作り、底の焚き口に着火する。 このまま一昼夜燃やし続け鎮火してから、1〜2日かけて窯の中で冷ましていく。冷めたサンゴ石を取り出して納屋に納め、石灰の注文に応じて「灰」にする。つまり「漆喰の白い粉」にする訳だ。



 納屋の内部は土壁で、万が一の発熱による火事に備えている。「知り合いの業者が焼いたサンゴ石を納屋に納めたあったとき、水害があっての、そしたら発熱した石が柱か何かに引火したんや、アガの家焼いたっての〜、」。 「焼いた石がまだ、熱を持っていたので?」と聞いたけど違っていた。石に柄杓で水を振りかける、この水が「のし水」やの、そう言えば尾古貴の灰窯の側に、小さな風呂桶のような物があった。
 「のし水」という普通の水を溜めておく貯水槽が必要なのだ。「のし水」を振りかけられた石は、化学反応を起こして熱をだしブク・ブクと動きだし、瞬時に白い粉になっていく。東出さんは説明してくれる。「要するに、石灰窯で焼いたサンゴ石は生石灰(きせっかい)やの、のし水を掛けられた生石灰は 、消石灰(しょうせっかい)の粉末 になるんやの、これがいしばいやで。」漆喰の原料はこのようにして製造されていた。


 若いとき、袋の塩浜で石灰を焼き、今も現役の左官職人である前川増夫(72歳)さんは、「最近、漆喰壁の仕事ら〜ないの。漆喰壁の仕事ていうのは職人の技量をいくらでも掛けられるんや、コテで塗るんやけど、最後は手のひらの柔らかいところで仕上げるんや。」「あそこの屋根見てみんし、あの棟漆喰(むねじっくい))・袖漆喰・軒漆喰の仕事はアシがしたんや、石灰岩の漆喰やったら、溶けて流れるけど石灰(いしばい)やったらどうもせんの。」

 串本の神田家の白壁、古座の善照寺の白壁等、共に「なまこ漆喰」壁も施工され、高度な職人の技が生かされ建物に重厚感がある。 なまこ壁の黒色は、松煙の煤を漆喰に混ぜ合わせ塗り込んでいく。納屋の土壁には必ずワラが練り込まれているように、漆喰壁の亀裂や剥離を防ぐ為にスサという植物繊維を練り込む、麻の細かい繊維の「麻スサ」や、糊の働きをする「フノリ(海藻)」を混ぜて練り合わせる。仕上げの壁には和紙を溶かした「紙すさ」を練り込み、仕上げの上塗りをすると漆喰壁は鏡の様に映ったという。

 二色の南明山・法雲寺(昭和10年建立)の境内には樹齢150年以上と伝わる古木の桜が二本あって、趣のある樹形と共に満開の桜は見事である。この切妻造りのお寺の「妻壁」には、登り龍の漆喰装飾が施されている。左官職人さんの手技は70年以上たった今でも色あせず綺麗なままだ、錆浦が育んでくれた海の恵みが龍に姿を変えて地下の人々を見守ってくれているのである。

 串本町は本州最南端の町であり、江戸時代、切支丹船に対する海防対策の遠見番所が二カ所あった、大島浦遠見番所と上野浦遠見番所である。
 寛政3年(1791)・3月27日、アメリカの商船レディーワシントン号とグレイス号が大島の内海に停泊、津荷村の古文書「時事記」によれば「浦々、お定めのとおり、弓・鉄砲をかまえる」と記されている。 この時、「熊野巡覧記」の著者である玉川玄龍が訳詞として商船の中国人乗組員と筆談し、船長の名を「堅徳力記」(ケンドリック船長)等と記録に遺している。11日間滞留したのちアメリカへと出航して行った。この時、大島の遠見番所の役人だった小山氏は、切支丹船を観察し、星条旗を掲げた正確な絵図を遺している。この頃を境として、異国船は度々目撃されるようになった。 

 嘉永元年(1848年)には帆柱から、煙を上げて沖を通過する不可解な異国船を目撃したと文書に記録されている。文久元年(1861年)からイギリス蒸気軍艦が沿岸測量の為、たびたび大島内海に入港し資材・食料の調達をしている。外国船にとって本州最南端の潮岬・樫野埼は、瀬戸内海への東入り口として重要な拠点だったのだ。 

 慶応2年(1866年)、航海の重要拠点の樫野埼・潮岬に灯台建設が決まり、明治2年(1869年)イギリス人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計によって着工された。建築材料は古座川の宇津木石で、古座川から樫野の港へ川船で運ばれた。 
 この時、田並の灰屋・三郎右衛門を始め、田並から二色の石灰焼方が多量の石灰を、灯明台役所に納めたと「樫野埼・潮岬灯明台石灰御用書」(串本町史・史料編)に記されている。サンゴを焼いて出来た石灰は、石造り灯台の、石と石との接着剤として使われたり、海上からもはっきり確認出来るよう、灯台の色を白く塗るのに使用された。
 樫野埼灯台は明治3年(1870年)7月8日、日本最初の白亜の石造灯台として完成し、潮岬灯台は日本最初の木造灯台として、同じ日に仮点灯したが、8年後に石造灯台に改築されている。 

 熊野地域での、自然と共生した暮らしのなかで、サンゴを利用した石灰の生業はなくなってしまったが、 今日、錆浦というサンゴの海域は「ラムサール条約湿地」に登録され、今までサンゴのことなんか全く知らなかった人達にも、「サンゴの海」のことを知ってもらえる機会ができた。

 自然の営みのなかで、浜辺にはたくさんのサンゴのかけらが打ち上げられ、きれいな白いサンゴの浜になっている。





聞き取り調査協力者

  東出 光路 氏
  前川 増夫 氏
  河野 九一 氏
  瀧野 秀二 氏
  谷  幸子 氏
  宇井 晋介 氏

参考文献

串本町史・通史編
串本町史・資料編
熊野巡覧記・紀南文化財研究会編
熊野誌四十五号・稲生淳著 P216
 外国人が見た幕末・明治の串本・大島とその地理的位置〜灯台技師ブラトンの来日にも触れながら〜

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