大辺路を辿った絵師・芦雪と虎と鯨の話
芦雪と虎と鯨の話

大辺路を辿って来た絵師・芦雪

  臨済宗東福寺派・錦江山無量寺の前進は東雨(あずまめ)の海門庵の場所だったそうだが、宝永四(1707)年の10月4日まで、串本浦の唯一の良港である袋の錦江山の麓にあった。錦江とは、神武天皇上陸伝説から由来した「錦の入り江」の事で、西側の出崎の森は「戸畔の森」と呼ばれ山頂には丹敷戸畔と伝わる墓が祀られている。この日発生した南海トラフを震源とする巨大地震による大津波によって無量寺は跡形も無く流されてしまった。
 境内にはビャクシンの巨木があって、その梢をはるかに越える津波だったと伝えられている。生き証人だったビャクシンの巨木は、戦時中の空襲によって燃えてしまい、無量寺が袋湊にあったことを伝える人も少なくなった。その後、現在の処に再建されていたが、愚海和尚の代になって本堂が大破。安永五(1776)年に再建を発願し、十一ヶ年の歳月をかけて天明六(1786)年6月本堂は完成した。

 『紀伊名所図絵』(熊野編)に、「愚海和尚は、本堂再建成就に際し、京の画人長沢芦雪を伴って帰り、屏風、襖に大作の絵を描く。芦雪の師匠円山応挙と愚海和尚は若かりし頃親交あり、あなたが一寺を興す住職になったら私はあなたのお寺へ出向いて、襖、壁に絵を描きましょうと約束していた。京画壇の画師として大御所になっていた応挙は自信の作品と、高弟・芦雪をつかわす。芦雪は当寺に滞留、数多く大作を遺す。時に天明六年、芦雪三十三歳なり」。と記されている。
 芦雪は愚海和尚に伴って熊野古道紀伊路を辿り、田辺から大辺路に入って富田坂、仏坂、長井坂それから四十八坂と言われる登り下りを繰り替えし、南端の串本に到着したのだった。

 芦雪の南紀滞在中に関する文書記録はなく、帰京時の記録が断片的だが文書に記録されている。『すさみ町史』には「長沢芦雪が串本の無量寺へ師匠円山応挙の絵を届けそこで自分も多くの絵を書いて、帰路周参見の東泉庵に泊まり、萬福寺の十六枚の襖に絵を書いた記録が萬福寺に残っている」と記されているが、萬福寺の芦雪が描いた襖絵は行方が分からなくなっている。足取りは、田辺の真言宗・高山寺に立ち寄ったことが寺の日記である『三番日含』(さんばんにちがん)に記録されていた。内容を要約すると「芦雪は武士の出で、京都に住み、串本無量寺の和尚と共に下って、無量寺、西向ノ成就寺、富田高瀬ノ草堂寺の客殿の画を描いた。帰京の節、当山に三〜四日滞留し、屏風絵などを描いた。三十四歳。時に天明七年二月中旬」と記されている。それに別筆にて加筆があって、「富田より、十二日の晩方来たり、号ハ芦雪、名ハ魚、字ハ氷計。十五日昼時出立。画の謝礼一百目銀ヲ遣ス。芦雪ノ師匠者京都圓山主水(もんど)ナリ」(南紀高山記雑事記 紀南文化財研究所)。

 このように、芦雪が京へ帰る時の日時が記録されている。しかし、南紀へ向かった時期や滞在期間の記録は残っていないが、今日まで、滞在していた様子が語り次がれている。寺伝によれば、串本に来たとき、まだ本堂は建設中で寺から少し東寄りの矢熊に暮らしていた棟梁の利右衛門宅に間借りしていたそうで、棟梁はリヨモと呼ばれていた。芦雪はリヨモ宅から寺へ通い構想を練っていたと伝わっている。
 草堂寺元住職清水令温氏の『名画修理記』(昭和十一年)は「…芦雪は天明六年の春、紀南熊野に来遊、秋に当寺に来て半年あまり滞留。本堂その他に画技を揮毫する…」と記されているから無量寺伝とつじつまがあってくる。だから、一般的に芦雪の来串の時期は春だったと信じられていた。

 しかし、無量寺上間一之間の「紙本墨画山水画」の画面左下隅に「天明丙午初冬 平安 応挙」の落胤が印されていることから、応挙は天明六年の初冬に描いた作品を芦雪に託し無量寺へ運んだという説が一般化している。このように、芦雪は寺伝通り春に来たのだ、いや初冬だと南紀来遊の時期に二つの説の違いがある。
 芦雪は水にこだわったようで、古座川の鶴川で汲んだ水で墨をすったと伝わっている。鶴川から上流に広がる山峡の趣はまさに中国絵画の山水画そのもので、カモシカだけがねぐらにしているカモシカ岩峰は、粗々しく複雑な虫食い状態の風化文様をなし、少し上流の一枚岩の巨岩や、天にそびえ立つ天柱岩のダイナミックな古座峡の趣は芦雪の感性に刺激を与えた事だろう。

 
芦雪の描いた虎図
  
 無量寺の障壁画で一番の看板襖絵は「紙本墨画竜虎図」で、仏間の東側襖には龍、西側襖には虎が描かれている。特に、圧倒的迫力で観る人を魅了する猛虎図は三十数年前、イギリスで催されたロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ「江戸大美術展」(1981〜1982)に出品された。二階建てバスの側面に大胆な猛虎図のポスターが掲げられて、ロンドン子の話題を独占したことは語りぐさになっている。その猛虎図は鑑賞する人々を虜にし、実物大の虎や龍が今にも動きだしそうな臨場感は仏間に緊張感が漂っている。だから、芦雪の魅力を表現するのに、絵画評論家は猛虎図の虎に注目する。
 芦雪は氷に閉じこめられ身動きの出来ない魚を見て、自身は魚だと思いを強くして「魚」印の印鑑をずっと使用してきた。猛虎図の裏襖には猫が鮎をねらっている構図が描かれているから、猛虎図の虎は魚が見た猫なのだ。つまり芦雪自身が見た猫を虎として描いたのだという(明治学院大学山下祐二教授「美の巨人たち」)。
 画師は本当の虎を知らないから、表現する虎図はあくまでも猫を見て描いたのだろうというこだわりが一般化している。日本人と虎の接点はどのようだったのか、日本に生息していない虎を日本人はどのように理解していたのだろうか、その内容は、考えられる想像をはるかに超えていた。



 『江戸図屏風の動物たち』(塚本学著)には、「虎が勇猛な動物であることは、『万葉集』にも表現され古くから日本人のあいだに知られていました」と記述されている。『動物物語』(高島春雄著)に「欽明天皇六(545)年十一月膳臣巴提便(かしわでのおみはてび)が百済に使いし、虎を退治しその皮を剥ぎ取って持ち帰ったと『日本書紀』にあるのが、虎という語の見られる最古の文献である」と記されている。最古の歴史書に虎について記述があるとは驚きで。さらに、「宇多天皇の寛平二(890)年にはじめて生きた虎(虎の子)が輸入された」と記され、それ以来、虎の絵が流行したという。さらに象は、応永十五(1408)年に初渡来し、正親町天皇(おおぎまち)の御宇天正二(1574)年7月、明船が博多に来り象と虎をもたらしたと記されている。
 驚きは紀伊続風土記(尾鷲郷・南浦)にもあった。熊野・尾鷲の武士が虎を刀で斬り殺したと記述されていることだ。400年以上前の豊臣秀吉の文禄慶長の役での在陣中、虎が現れ、仲新兵衛と馬瀬の者の両人が鉄砲で撃ったが手負いになって襲いかかってきた。世古慶十郎が向かってきた虎を斬り殺すとき、相打ちになって咬まれてしまった。帰国後、太閤様に虎皮を献上して尾鷲に凱旋した後、虎に咬まれた傷が悪化して亡くなったと記されている。尾鷲郷の武士の虎退治の武勇伝は、江戸期を通じ熊野地方でも語り継がれてきたのだった。江戸時代、「家康に献上された虎は鉄の鎖をつけ、左右七〜八人が取付きて引来る」(『動物物語』)と記されているし、朝鮮通信使によって虎皮、豹皮が献上されていた。加藤清正の虎退治の物語や、唐船、オランダ船によって運ばれた虎や豹の見世物小屋は大盛況だった。
 
 今日、アジアにいた虎の生息圏内は狭まり絶滅の危機に瀕し、朝鮮半島に生息していた虎、豹もすでに姿を消している。この猛獣は、摩訶不思議な力を持つ「山の神」、「虎神」であり、その骨、肉、胆、血は精力強壮剤でその効き目は神の如しであったと、『韓国の虎はなぜ消えたのか』(遠藤公男著)に記述されている。文禄慶長の役の時の返礼の朱印状で、「先度、虎の義仰せ遣わされ候のところ、早々申付け狩り取りの皮、頭、骨肉、肝胆入念目録の如く到来、悦び思食され候伝伝」。つまり、太閤様ご養生のために、渡海した武将が虎肉を塩付けにして送り、秀吉は虎を薬用として食していたのだった。
 さらに内容は本題の内容について言及し、虎の痕跡を尋ね歩く旅の結果に分かったことは驚くべき内容だった。「ソウル大学の図書館で見つけた『朝鮮総督府統計年報』に朝鮮に於ける猛獣被害及び其の予防駆除についての記載があって、虎、豹、狼、熊、大山猫などの肉食動物をひとまとめにして害獣として駆除されていたのだった。
 昭和十七年の記録で統計は終わっているが、その年、豹は十五頭、虎は昭和十五年の一頭の駆除が最後であった。 明治政府は、日本国内のオオカミは文明国家にふさわしくない悪獣だと決めつけ、害獣として駆除し絶滅に追い込んでいた。同じ考えでもって統治していた朝鮮半島でも、虎の滅亡に日本政府が深く関わっていたと綴られている。当時の政府は、国の中に野蛮な動物が生息していると文明国ではないという考えがあり、狩った虎の皮は極上の朝鮮土産になったのだった。



  2013年4月6日から5月19日まで、西宮市大谷美術館で「とら・虎・トラ 甲子園の歴史と日本画における虎の表現」展が催された。無量寺の龍虎の襖絵はもちろん、芦雪の師匠である円山応挙の「水呑虎図」、それに、日本画に表現される多数の絵師の虎絵が展示されていた。館内の広い展示ルームの正面に無量寺の龍虎図が展示され、それと対峙するように応挙の「水呑虎図」が展示されていた。無量寺の虎図は岩から飛び降り、水辺(葦が描かれている)で、獲物を見つめ飛びかかろうとする躍動感に溢れているが、応挙の「水呑虎図」は、虎が体を屈め水を飲んでいる静止画だ。しかし応挙の描いた、その静止している虎の姿態に隙が無く、すぐにでも飛びかかれる秘めた躍動感が感じられる。芦雪はその「水呑虎図」に至る虎の動きを表現しようとして描いたのではないのだろうか。応挙も芦雪も虎とはどのような動物なのかは、はっきり認識したはずで、応挙の描いた虎の姿態は芦雪にもはっきり受け継がれている。

芦雪が見た巨大な鯨
 
 この地方は古くから三前郷(みさきごう)・潮崎荘だったが、江戸期の行政区は、旧串本町は江田組、旧古座町・古座川町は古座組であった。
 古座組・西向浦に無量寺と同じ宗派の臨済宗・薬王山・成就寺(貞和二年・1685、虎間禅師開祖)があり、安永五(1776)年秋に再建されていた。もともと成就寺は、鎌倉幕府から熊野の海賊を取り締まるよう命を受けて、下野国(しもつけ・栃木県)から一族十三人、雑兵三百余人を引き連れ、この地を領有していた小山家の屋敷があったところで、江戸期に隠居室を僧侶に与え成就庵と号していた。
 中世の時代、小山氏は西向浦に居城を設けて、大島、串本、潮岬、有田の手前までを領有し、太平記の乱世時、吉野内裏にご奉公、太閤様朝鮮出兵時、藤堂高虎の陣に組して領民百八十人を率いて渡海していた(『熊野巡覧記』)。南龍院様後入国のおり、大島浦遠見番所役人を命じられ、明治二年遠見番所が廃しされるまで代々役職を務める西向浦の有力者だった。

 芦雪は成就寺にも滞在して障壁画を描いているが、無量寺や草堂寺との違いは師匠円山応挙の絵が無いことである。寺伝によれば、「住職が夜の見回りをしたとき、部屋に明かりが灯っていた。朝、仏間に入ろうとしたら那智の大滝を背景とする唐獅子が描かれた襖絵が出来上がっていた」、芦雪は一気に描いたのだと伝わっている。
 串本町内の旧家に「絵替り図屏風」があり、その一図に下部半分が真っ黒で、上部の空間には幟を立てた無数の船が描かれた不思議な構図の絵がある。「捕鯨図」なのだ。成就寺から望める古座川の左岸河口は古座浦で、当時は、江戸〜大坂を行き交う廻船の寄港地であり、藩や商人が支配した古座鯨方が営む捕鯨によって、古座組、江田組内で一番の繁昌地だった。
 芦雪は古座浦で初めて鯨を目に、その巨大さに驚き、船に乗って捕鯨の様子を見物したのだろう。「捕鯨図」は芦雪が目にした鯨の巨大さを表現したユニークな構図で、樫野浦に仕掛けられた網代へと鯨を追い込む勢子船群の喧噪の様子が描かれている。
 芦雪は南紀に滞在中、南紀でゆったりとした日々を過ごしたことだろう、熊野三山にも詣でただろうし、古座峡の山水の趣、潮岬の突端の荒磯、大島の海金剛の磯島に打ち砕ける荒波、橋杭岩の奇岩の列、水平線から登る朝日、水平線に沈む夕日、変化自在な風と雨、巨大だった鯨、沖を行き交う帆船。南紀の自然から感じ得た教示によって、彼自身の境地を悟ったのだろう。
  
 昭和三十四(1959)年、住職・湊素堂老師と総代の方々が「応挙・芦雪館」建設を発願し、串本町内外の人々から広く寄付を募り、昭和三十六(1961)年十一月十五日、錦江山・無量寺の境内に「応挙・芦雪館」が竣工した。
 「応挙・芦雪館」は寺宝である応挙、芦雪の障壁画を保存し、一般に広く公開して鑑賞できる「日本一小さな美術館」だった。平成二(1990)年、校倉造りの収蔵庫が完成し、重要文化財の障壁画を展示、保管している。『和歌山県 串本町誌』(神林書店)に「明治四十三(1910)年に応挙、芦雪の襖を倉庫に保存することになった」と記載があるように、これまで本堂には襖が入れられていなかった。
 平成二十一(2009)年、応挙、芦雪のデジタル再生された襖絵を本来の状態で各室に納め、実に九十九年ぶりに芦雪が躍動した心意気を鑑賞できるようになった。


  

<参考文献>

  『紀伊続風土記』
  『熊野巡覧記』
  『紀伊名所図絵』(熊野編)  
  『長沢芦雪』別冊太陽・二〇一一年平凡社
  『韓国の虎はなぜ消えたのか』一九八八年遠藤公男著 講談社    
  『熊野参詣道王子社及び関連文化財学術調査報告書』2012年和歌山県教育委員会 「無量寺」拙稿
  『ようこそ無量寺へ 応挙・芦雪の名作ふすま絵』平成二十三年串本応挙芦雪館
  『動物物語』一九八六年高島春男著(株)八坂書房
  『江戸図屏風の動物たち』一九九八年塚本学著 財団法人歴史民俗博物館振興会
  『とら虎トラ』二〇一三年 西宮市大谷記念美術館
  『美の巨人たち』(長沢芦雪「虎図」)
  『南紀高山記雑事記』(紀南文化財研究所
  『南紀寺院の長沢芦雪画』昭和四九(一九七四)年 和歌山県立博物館
  『和歌山県 串本町誌』大正十三(一九二四)年 神林書店
  『紀州小山家文書』日本評論社

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