太平洋に大きく迫り出している紀伊半島の和歌山県・三重県にまたがる南部は昔から熊野と呼ばれてきた。熊野地方は三千六百峰の山々が連なっていると言われていることから分かるように、幾重にも重なり急峻な渓谷を刻んだ山々はそのまま海岸部まで迫って海に接し、海岸部は複雑に入り組み出崎になっている。その為平野らしい平野はなく山と川・山と海の接点にあたる平地の狭間で、熊野の人々は山・川・海の恵みを巧みに取り込んで暮らしきた。
 2004年の7月「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に指定された熊野三山の本宮大社・速玉大社・那智大社・青岸渡寺には大勢の参拝者が訪れ、又その熊野三山へとつながる熊野古道を探索する人達で賑わっている。



 熊野・・といえばすぐに思い浮かぶのは源平合戦で大活躍をした「熊野水軍」である。古事記・日本書紀によると日向を出発した神武天皇が大阪湾を南下し「熊野村」に上陸し東征したと記述されている。串本町・笠嶋遺跡(串本高校の校庭)から弥生時代の構造船の船底材が出土しているから、ここには海洋民族の民が暮らしていたのだろう。海岸部の森にはクスノキ・スギ・・等の巨木が豊富に生い茂り船材にはことかかなかった。
 江戸時代に入ると、大坂から江戸への海上交通の発展とともに最南端の島である紀伊・大島浦は、潮まち・風まち・飲料水の補給港として菱垣回船・樽回船が停泊する港として栄えた。串本節の一節に「障子開ければ大島一目なぜに佐吉は山の陰」という歌詞がある、これは停泊した帆船の障子窓を開けて恋しい人を想う唄であり、この歌詞によって当時を偲ぶことができる。


 その最南端の町、串本町・古座(旧古座町)に意外な内容の江戸時代の古文書が遺っている(左の写真)。その内容はまったく考えもつかなかったもので、当時日本狼の存在が異国船襲来に対する海防体制になくてはならなかったと言うのである。
 この「熊野の日本狼と黒船」と題した不思議な組み合わせについて調べていると、鎖国令下の紀州藩内での異国船に対する海防問題や、熊野の人達の暮らしについて知らなかったいろいろな事が解ってきた。

 その古文書の「狼煙場所早々見分致し狼糞・肥松等用意・・・」と始まる文面の「狼煙(のろし)場所」とは今でも狼煙山・・等と呼ばれ、各地に地名として残っている。そこは黒船を発見すると、「のろし」を上げてすばやく各浦へ警戒を伝達する通信手段の場所であった。誰でも知っている「のろし」の歴史は古く、弥生時代の集落跡からのろし場の遺構があったと報告されているし、7世紀の飛鳥時代にのろしを使った記録が「日本書記」にある。伝えられた時に「飛火」(とぶひ)と呼ばれていたが、のちにのろし(烽・烽火)と呼ばれるようになり、のろしを「狼煙」という字にあてはめたようだ。

 狼煙場で狼煙を上げて合図を送る方法として、わが国において、これまでは単に薪を燃やすだけだろうと理解していた。古文書に書かれている「肥松(こえまつ)」とは、脂分を多く含んだ松の事で、それはクロマツよりアカマツが適し山内で立ち枯れしたまま何年も経った骨樹のことである。特に枝の節の部分には松の樹脂が溜まっているから、黒い煙を上げてよく燃える。肥松(古松)は現在でも貴重である。墨の原料である松煙は肥松を焚いて作られ、煤から松煙墨・「紀州松煙」が創られている。
 それに伝説的な発想でしか無かった。「狼糞(ろうふん)」・・つまり熊野に棲息していた日本オオカミのフンが必要だと言う記述にはおどろいた。「狼煙」とは新字源によると「のろし。おおかみのふんを用いると、風がふいてもけむりはまっすぐのぼるという」と書かれている。
 狼煙とは中国で、狼の糞を燃やしていた事ぐらい漠然と知っていた。中国から伝わった「狼煙」の字の通りオオカミの糞を火種にするので、狼煙場には肥松と共に狼の糞が無くてはならなかった。

 この文面は嘉永六年(1853)六月17日と記されているから、この日付はとっても重要である。6月3日ペリーがアメリカ艦隊を率いて浦賀に来航し、幕府に開国をせまってからたった14日しかたっていないのに、紀州藩は各浦に対して海防に関する警戒態勢をすでに伝達していた。しかし、困ったことに古座組の大島浦と下田原・森戸崎の狼煙場の「狼糞」はあまりにも年数が経ちすぎていて役に立たないので、「山内の者に狼糞を探すように厳しく言っておりますが、なかなか用意できません。しかし肥松はとどこおりなく用意しています。」・・古座浦組の海防態勢の責任者である大庄屋が、古座浦の狼煙場の状況をすさみの代官所へ恐る恐る報告している。


 このペリー来航の時より62年前の寛政三年(1791)3月27日、紀伊大島の内海・古座浦の九龍島(くろしま)沖に2艘のアメリカ商船が突如姿をあらわし停泊した、各浦の人々は見慣れない異国船を遠巻きに見つめ警戒したことだろう。
 古座組の通訳官・玉川養浩(医者)が乗り込み乗組員の中国人と筆談して、「紅毛船(外国船)で、地名は花其載(ボストン)、貨物は銅・鉄と火砲50門、中国へ毛皮を売りに行ったが売れなかったので帰国している。風向きが好くないので、好風がきたらすぐに去る。船長名は堅徳力記。」と書かれた書面をもらった。

 近年の調査により船名はレデイーワシントン号で船長名はジョン・ケンドリック。もう一艘はグレイス号で、確かに中国へラッコの毛皮を売りにいった事などが判明している。4月6日異国船は出帆して行方知れずになってしまったが、11日間投錨しているあいだ、見物に来ていた島民を船に招き入れて飲食を持てなしたり、大島に上陸して松を伐り採り・木綿樋(ホース)を使って水を取るなどした。ときおり大砲をぶっ放したりしたので、その間浦の人達は落ち着かない日々を過ごしたのだろう。
 藩庁の和歌山城から目付役・鉄砲役を派兵し、8日に串本浦に到着した時すでにアメリカの商船は出航した後だった。藩はあえて異国船との衝突をさけたのだろうというのが一般的な見解のようだ。すでに紀州藩祖・徳川頼宣によって海防組織・浦組が創設され、領内の140里と言われる海岸線の主要な出崎に遠見番所及び狼煙場を設け、そこには「見張り番役人」、それに狼煙を上げる「狼煙立て」と称する山麓の村民を常駐させて、切支丹宗門・異国船に対する海防の警備態勢ができあがっていた。
 しかしこの制度はどうも形骸化していたようで、この突発的な出来事に遠見番所・狼煙場はうまく対応できなかった。この事件がきっかけとなり、警戒体制を強化して九十九浦の75カ所の出崎に狼煙場を設けたと言う。それに大島浦の5カ所(大石ノ元、恵比寿ノ元等)には大筒が設置された。
 
 この頃から異国の捕鯨船が熊野灘で頻繁に目撃され、八丁櫨を操る太地鯨方の銛による捕鯨の様子を嘲笑しながら見物したと記録に残っている。しかし狼煙場からは異国船発見の狼煙は上がることがなかったのだろう。古座浦の狼煙場に取り置きされている「狼糞」は古くて使い物にならない。すさみ代官・木村五郎太夫からの再三の申しいれに対し、「狼糞」探しを命じられている古座組大庄屋・橋爪周輔はあせった。・・「早速・・深山へ入り精々あい尋ねさせ候・・」しかし「今もっていささかも手にはいらず・・怠けているのではありません・・百姓・樵に得と申しているが・・狼は夏・秋には山内に出没せず、冬になるとよく出歩くのでしばらく有余が欲しい・・」と嘉永6年(1853)8月に再び返事を書いている。江戸時代末期すでに古座川の山奥では狼が少なくなっていたのだろうか、その書面どおり狼は冬にならないと山内を歩きまわらないのか・・?


 ミカンで有名な有田川の上流の旧清水町(有田川町)の教育委員会には「狼糞拾ひ方人別名前覚帳(表紙:左の写真)」・「宮原組宮崎狼烟・御入用狼糞拾ひ人別名前帳」・「狼糞尋ね方人足覚」・「狼糞目方拾い・・」・「狼糞村々より・・」・・等これまた驚きの「狼糞」に関する古文書が保管されている。ここは紀州の屋根と呼ばれている標高1382メートルの護摩壇山の麓で、文面に記されている上湯川村・下湯川村の周辺はその頃鬱蒼とした原生林に覆われた森が広がっていたのだろう。狼は群をなし棲息していたので狼糞集めに関しては、かなりの成果があった。

 「宮原組宮崎狼烟・御入用狼糞拾ひ人別名前帳」山保田組大庄屋元・嘉永六年(1853)六月には、集めた狼糞の目方を記録していて、(正味七拾目・上湯川)・(四拾七匁・下湯川村弁助)・(弐拾五匁・下湯川村平兵衛)・(三拾七匁・無右衛門)・(五拾弐匁五分・源兵衛)・・・等と書かれている。「狼糞拾ひ方人別名前覚帳」(大庄屋許・嘉永六年八月)でも、上湯川村で百三拾目も拾ったと記されているから、季節にかかわらず狼は山内を歩きまわっていたことになる。古座組の大庄屋は古座川筋の山で狼の糞が拾えないため代官にただの言い訳をしただけだった。
  ちなみに一匁は3.75グラムでちょうど五円硬貨と同じ重さである。狼の糞は、一カ所に大量にされていて黒っぽい色をした、通称・「狸の肥だめ」と違い、カルシウム分が多く含まれているので白っぽく、すぐに識別できた。
 その時代の黒色火薬の製作方法は縁の下に家畜糞を溜め、ヨモギを敷いてその葉に付着した結晶に、硫黄と木炭の粉末を加えて作ったと聞いている。だから、狼の白く乾燥した糞は火種としてよく燃えたのだろう。村民達は狼糞を集める為に山野を駆けめぐり苦労した。
 代官所に提出された拾い人別帳には「右はこの度狼糞拾いを仰せつけられ、右人足をもって拾い差し上げました。御受け取りくださるべき上は、相応の賃銭をお下げ下さるようお願いします。」とぬけめなく日当の請求をしている。


重畳山山頂から望む大島浦 右が本州最南端の潮岬、左が大島 大島浦の狼煙場所は古文書によると「大島浦阿弥陀堂」に設けたと書かれている。蓮生寺の裏山の「獅子舞岩」の狭間に石垣が築かれていて、ここが阿弥陀堂跡だろうと教えてもらった。その山頂を地元の人は「遠見」・「狼煙」・「日和山」等と呼んでいるから、ここに狼煙場があった。
 山頂は大島桜が茂る平らな耕作地跡で狼煙場らしい石組の跡は見あたら無いが、ここからは熊野灘それに枯れ木灘がよく見通せる。遠見から椿道を東へ行くと山頂にテレビ塔が建っている。ここに遠見番所があったので「番所山」と呼ばれ、テレビ塔が建つまでは「番所」と書かれた石碑があったと聞いている。
 第二次世界大戦時にもアメリカ艦船の監視所として使用されていたので、黒船の時代と同様いかに遠見番所として適していたかわかる。
 古座組に対して旧串本町の大島を除く地域は当時江田組だった。その本州最南端・潮岬の端には「潮ノ岬上野(うわの)遠見番所」そして出雲崎には「出雲崎狼煙場」が設けられていた。

 大島遠見番所・潮ノ岬上野遠見番所の役人に任命された人物は驚くべき経験を積んだ人だった。すさみ町・漂流外国物語(堀弥市漂流記)によると、天保12年(1841)旧暦10月、串本の隣町である周参見の船頭井上善助・水主堀弥市ら13名は摂津兵庫(神戸)から酒・綿・塩・線香を積み奥州南部の宮古へ輸送中、遠州灘で遭難・漂流し異国船に救助されて遙かカリフォルニア半島の先端(メキシコ領)に日本人として初めて上陸、船賃を稼ぎ中国向け貿易船に乗って善助は天保14年(1843)に、弥市は弘化2年(1845)7月に「右日本の山、相見へ候、3日目長崎に入津」無事帰国を果たした。長崎で取り調べをうけ「外国切支丹、見も聞きもせず、勧められもせず、拝みもせずに候事・・」と言っている。
 彼らは滞在していたカリフォルニア・メキシコ、帰国途中のマカオ・中国など各国の人々の親切に「実に世界には鬼は無きものと皆と悦び申し候・・」と感謝している。それにアヘン戦争直後の中国で「アヘン煙草、イギリスより渡り候物なり・・」・「相止め候ならばその身ふるえ候、キセルの脂を取り少々口の中へ入れると止まるなり、およそ2・3年も吸えばその身やせおとろえ精力も尽き、食を縮め死ぬなり」・・とアヘンの恐ろしさを詳しく報告している。
 翌年5月紀州藩役人・すさみ浦役人の向かえによって遭難以来5年ぶりに和歌山へ戻った。藩にとって外国での貴重な体験を身につけ、アメリカの言葉を話せる彼らは異国船対策に必要だった。善助は大島遠見番所・弥市は潮岬上野遠見番所の役人を務めた。
 土佐の漁師・万次郎は天保12年(1841)仲間とともに遭難、運良くアメリカの捕鯨船に救助されアメリカ本土へ渡って勉学に努め1851年帰国、多岐にわたって大活躍したのはあまりにも有名であるが、そんな時代、わが熊野にジョン・マンジロウよりも早く北米大陸に上陸して帰国を果たした人がいたとは、あまり世に知られていないのが残念で、もっとその体験談を伝えていかなければならない。


熊野市遊木の狼煙場(直径約2m50cm、高さ1m10cm)完全な形で現存している 尾鷲市・三木浦の木名峠や、熊野市・遊木の出崎には江戸時代に築かれた狼煙場所が当時のまま現存している。この地区は国道42号からはずれ、複雑な出崎と入り江が織りなすリアス式海岸が続く景勝地である。
 木名峠狼煙場の解説看板には、「遠見番所・狼煙場の設立は寛永12年(1625)と古文書に見受けられる。・・・黒船を発見すると、九木崎・木名峠・梶尾地切山と狼煙を上げ警戒体制をとる。・・・狼糞三升五合から五升・青松60貫を蓄えて置く。・・・明治2年(1869)遠見番所・狼煙場は廃された。・・」と書かれている。

 「日高近世史料」にも「狼煙場の設備として狼煙台を築く」・「狼煙台の傍に狼糞・肥松を貯蔵し」と書かれていて狼煙台の数にふれられていないが、三木浦・遊木には饅頭型の自然石で円形に石垣が築かれ、一列に並んだ3台の狼煙台が設けられている。・・狼煙台が3台あることによって狼煙の伝達方法に関する大きな疑問が解けてきた。
 「日高近世史料」の正徳6年3月(1716)田辺附浦組帳覚によると「もしまた次々の組を呼び集める時は狼煙を2筋よく見える様に上げるべき、2筋の狼煙を上げる時は左右の組にて1筋の狼煙を上げて隣の組に知らせ、その上村々いずれの組を救うべき旨申し越す事」と書かれている。この1筋・2筋という狼煙の上げ方によって伝達する合図が定められ、3筋の狼煙が上がる時は火急の合図だった。これで狼煙場に3台の狼煙台が設けられた理由が理解できた。
尾鷲市三木浦・木名峠の狼煙場跡 これまでは昔見た西部劇映画のワンシ−ンで、インデイアンが狼煙を上げる時、幕を使用してけむりの上がり具合を変えていたイメージがずっと頭の隅に残っていたからだ。

 また元禄7年3月(1694)御領分浦組合・南部(みなべ)浦組之次第(紀州梅で有名な南部町)には、「南部の狼烟に火を立てないのに、芳養(はや)坂峠に火が立って芳養にも火が立つと、南部より芳養浦へかけつける。
 芳養の狼烟に火が立たないのに、芳養坂峠に火が立つ時、南部浦へ懸け集まり申し定めに御座候」と各浦ごとに非常時の狼煙の上げ方が決められ、隣浦への救援体制まで定められている。これら狼煙の取り決めは隣浦どうしの情報の伝達だけである。

 はるか三重県・志摩半島・田曽崎の出崎の狼煙場から、九木崎・灯明崎・大島・潮岬・番所崎・日御崎・宮崎・雑賀崎・・等と主な出崎に設けられた狼煙場。上げられた狼煙を各狼煙場から順序よくリレーして和歌山城まで伝達する、すごい通信網のシステムが現在の光ファイバーのように敷かれていた。しかしこのシステムは本当に試みられたのか、ちょっと疑問である。
 狼煙は一筋・二筋・三筋と真すぐ上がらないと意味がない、だが熊野灘・枯れ木灘には、コチ(東風)・イサナ(南東風)・マゼ(南風)・ヤマセ(南西風)・・等いろんな風が吹く、とくにベタナギ(無風)の日は少ない、出崎に立ち上る狼煙は何十里も海を越えて伝達できたのかな・・?

 狼煙を上げ伝達する仕組みを試して見たいが、日本狼は100年前に絶滅し、熊野の山野で狼の糞を拾うことが出来ない。北海道のエゾ狼は日本狼より早く、放牧の害獣として毒肉のワナによってあっという間に絶滅させられてしまった。神獣としてあがめられた気高き山の大将の牙は、病を治し、魔をさけるまじないに使われ、その薬効ゆえに肉を食して、おまけに狼糞まで薬になったという。
 熊野の各地には狼に関する伝説・伝承が語り継がれているが、江戸時代狼煙場の必需品だった狼の糞の件すら、ただの伝説として重要視されなかった。しかし狼の糞を拾いに奧深い山々を歩き回った山村の人々が居たことを初めて知った。それに旧金屋町・宇井の庄屋は狼を飼い慣らし護身用に連れ歩いていたと伝えられている。この様な狼と人との関わりがあったとは、なおさら狼に親しみを感じてしまう。狼の絶滅の要因として犬の病気であるジステンバーに感染した為だと世間で言われている。たしかに病狼(病気の狼)出没の話しも各地にある。
 江戸時代の中頃、明和5年(1768)、伊串村(串本町)に病狼が出没、格闘してけがを負った村民が狂犬病にかかって亡くなり、その病狼は隣の大浦の村民によって槍で始末されたと伝わっている。しかし明治時代の半ばから本格化した原生林の伐採によって、狼の棲息場所を奪ってしまったことが絶滅の大きな要因だと考えている。

 今、狼がいなくなった自然界は生態系のバランスをくずしている、再び狼が熊野の山野で鹿を追って狩りをする・・そんな源郷の自然に思いを馳せるのは私だけだろうか。




   参考文献

「江戸時代末期紀州藩の海防について」谷口哲夫著
「日高近世史料」森彦太郎著・提供山本賢氏
「わが名はケンドリック」佐山和夫著
「紀伊大島」濱健悟著
「狼糞」に関する史料提供・有田川町教育委員会
「有田の民話集ふる里の泉」鳥井勝著・提供二澤久雄氏
「串本町史」
「紀州藩の海防について」大原満著
「いなずみ」6号・7号すさみ町教育委員会


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