熊野・大辺路の暮らし
〜死者は補陀落へと旅立つ〜


串本町 上野 一夫










平見越えの道

  串本町の熊野古道・大辺路は、2004年の春発足した大辺路刈り開き隊によって、草木に覆われ歩くことのできなかった古道の刈り開きや道標看板の設置等の活動によって、迷うことなく古道探索を楽しむことができるようになった。

 2004年7月、富田坂・仏坂・長井坂の一部分は世界遺産に指定されたが、残念なことに串本町内の古道は世界遺産への選から漏れてしまった。しかし町内の古道も世界に誇るべき世界遺産・参詣道であることになんら変わりはない。
 石畳・掘り割りなどで整備されていた平見越えの道、磯道、「通り穴」や「くぐり穴」と呼ばれているガバ(洞窟)をくぐって行く道、熊野灘から上ってきた太陽が枯れ木灘に沈む、最南端の地理を体感できる潮御崎神社への「みさき道」等々、この地は「古事記」・「日本書紀」の舞台でもあり、いにしえの時代から人々の心を駆り立て、皆があこがれる「常世の国」に一番近い地だった。


 元禄年間(1688〜1704)に書かれた当時の旅行案内記「紀南郷導記」の和深浦の処に、「くじの川ヨリ和深浦ノ間ニ統ベテ小坂四十八ケ所有リト伝ウ、但シ大山ハ此外也」と記されている。

 坂を上り下って磯部を伝い歩き、また坂を上る。この四十八カ所の小坂の上の平坦部を「平見」(ひらみ)と呼んでいる。古道の通じていた四十八坂の平見以外にも、耕作地に開発されている平見が串本町内の各地にあって、「○○平見」と名前が付けられている。



 それに対して、同じ串本町内でも古座地区には「平見」という呼び名はなく、地下(じげ)の裏山を「上ノ山」と呼んでいる。山頂部は、古座地区から津荷地区の広い範囲にわたって開墾され、サツマイモや麦などを栽培していた。今日、大部分の畑は開発されて「上野山団地」に変わっている。

 「串本のあゆみ」(明治篇)によれば、潮岬の「望楼の芝」はもともと「楠平見」と呼ばれていた。明治27年(1894)この突端にロシアのバルチック艦隊を監視する為に海軍の望楼所 が建てられ、それ以来楠平見から今の呼び名に変わったと記されている。現在建物は崩れ落ちて入り口の壁面だけが残っている。

 和深には九九平見と書いて「ここのひらみ」と名付けられた平見がある。地元の人から聞くところによると、周参見町との境界の平見から数えて「ここのつ目」の平見になるから名付けられたそうで、@伝次平見A雨島平見B向平見C中平見D西ノ平見E東ノ平見F新田平見G安指平見H九九平見となる。
 久次郎さんという方が開墾したので「久次郎平見」というのもある。日照時間が長く、太平洋を一望できる平見での生活は、現在の感覚では楽しそうに思えるが、昔は飲み水・畑の水に苦労したそうだ。水桶を担い棒で担って下の谷まで飲料水を汲みに行くのが日課で、畑の隅にはかならず水溜があったそうである。今は水道設備が整い、水溜めの多くは埋められてなくなった。



 雨島平見と向平見との間にある小さな谷から水を汲み、井戸のように利用していたのでその谷を「井戸の谷」と名付けている、今でもこの上の雨島平見の畑には、当時の水事情を忍ばせる大きな水溜めが残っている。平見は山の上の平たい所を開墾しており、山の上ゆえ井戸がほとんどない(場所によっては井戸も掘られてあったがすぐに涸れてしまう)ので、水の確保には苦労したそうだ。限られた耕作地しかないこの地方の人々は、アメリカやカナダそれに南方へと海を渡り海外移住した時期もあった。



古座の葬儀の移り変わり

 50年前に建築された私の自宅(串本町中湊)の流し台は、当時としては斬新なタイル張りであったが、水道設備が整っていて必要がないにも関わらず、流しの横に水を溜めるスペースが作られていた。母親の使い勝手を考えての事だったのだろうが、ほとんど利用していなかった。
 流し台の横に設けられたカマドでごはんを焚いていたが、すぐにプロパンガスが普及し、テレビの時代になって暮らしは一気に変わっていった。世間の流行によって、今まで続いてきた風習が急に忘れられてしまうことがある。

 過疎化によって人が少なくなり祭りごとが運営できなくなった地域は多い。また、近年の葬祭式場は、ご近所の皆さんつまり『テッタイド』(手伝いする人)の手を煩わせることなくすべての葬儀を執り行ってくれて大変便利なので、葬祭式場の利用が一気に増えている。葬式をだす当事者のほとんどは、『テッタイド』として葬儀に参加する機会が減り、葬儀の段取り・手順が分からないので、すべてを取り仕切ってくれる葬儀屋さんにお任せすることが多い。
 近年は『テッタイ』(手伝い)と言えば自ら式場の受付場にいって、自分の用事を探すほどだ。式場のない頃、区の役員さんや年配の方が告別式を取り仕切ってくれた。『ハナゴシラエ』や『モチバナ』の製作、『ツボホリ』(墓穴堀り)に行く『テッタイド』は上の人から「なになに ・・せえ」とは言われなくても、各自、自分の得手のいい用事について自分の居場所をつくったものだった。『テッタイド』のオバサンが作る料理はだいたいどこでもおまぜご飯(五目寿し)・酢の物・刺身と相場は決まっていた。今でも『ウチジョウコウ』(家焼香・自宅で葬式)で執り行うときは近所の人や付き合いのある人は『テッタイ』にいく。


 古座でお通夜のことを『トギ』という、夜伽話の伽のことで、意味が分からずに使っていたが、古語辞典(旺文社)によれば「夜などつれずれの折り、話の相手をして慰めること.寝所の添い寝をすること」とある。最愛の肉親の傍にいられるのは今宵だけだからという「お通夜」の意味を『トギ』はわかりやすく表現している。

 「南紀小川の民俗」(東洋大学)には「ミコヨセといって、身内の者に死人の霊を呼んでやる巫女が、古座からやってきた。」と記されている。約30年前に古座川町・小川で民俗調査したことを記録した本の一節である。このようなことが「トギ」の夜にされていたなんて知らなかったが、再び息を吹き返し・・「声を聞きたい」という願いを『ミコヨセ』に託したのだろう。しかし調査が行われた頃には、古座にはそのようなミコはもういなかった。どうやら50年以上も前の古い話のようである。現在80才代の方から、若い頃には、『下地」(古座地区、古座川河口付近)のゴンザブロウのオバサンやオケヤのおばさん、『石切』(津荷地区)のオカベのオバサンら『オガミ』(拝み)の人らがいたと言うことを聞いた。「トギの夜、オガミのオバサンの声は、死んだ人の声といっしょやったんやとぅ」。

 念仏講のおばさん達のご詠歌によって、死者は家族・親類・参列者といしょになって西国33箇所の観音札所をまわることができる。長いご詠歌が終わると、肩の荷をおろしたせいか、家族の心も急に楽になってくる。死者は荷になる持ち物などは何もなく、補陀落(観音)浄土へ向かう旅支度が整ったようだ。


 「トギ」から告別式への葬法は一変する。告別式は死者がアノヨへと向かい、コノヨとの決別を確実にするための葬法だ。
 古座の叔父が亡くなった40年前はまだ土葬だった。小さな風呂桶の様な棺桶に近所の『オイサン』(おじさん)が慣れた手つきで納棺しているのを側からじっと見つめた。ただ傍観していただけであったが、無事納棺できたときにはなんともいえない安堵感に包まれたことを記憶している。敷居の上にワラゾウリを置き、出刃包丁で中心に切り込みを入れる。 経帷子(きょうかたびら)を左前に着せた死装束に足袋は右左を反対に履かせる。「もうこれでワラゾウリを履いて帰ってこれんのや・・」。それに亡くなった日は大晦日だったので、正月には葬儀が出来ないから、『カゲカクシ』といってその日の夜、上ノ山の山頂部にある墓地まで担ぎあげて埋葬した。

 納棺の前に湯灌(ゆかん)といって水を張ったタライに湯を注ぎ、死者を拭き浄めた。その時、身体の患っているところを湯灌の残り湯で浸すと、死者は身体の悪いところを冥途へもっていってくれる。納棺の前に生者が棺桶の中に入り、健康を願う祝いごとをする地域もあるとのことだ。
 告別式の前に、少年が左手に受けた鐘を叩いて『地下』を一回りしてくる鐘の音がした。「チン・・チン・・」鐘の音を聞いてお参りに行く準備をしたり、「いったいどこの葬式ないよう〜」と聞いて驚いたりしたものだったが、いつの頃からか鐘の音を聞かなくなった。(今でも下地地区では、ウチジョウコウやお寺で執り行われるときには、鐘を叩いて回っている)

 葬列が家を出てお寺へ向かう時、死者の霊魂が戻ってこられないように、死者が生前使用していたお茶碗を玄関で割り、羽織っていた服を逆さにして振る。座敷と土間をホウキで同時にはき出す。近年葬祭式場での告別式が主流になってきたので、町中での葬列を見かけなくなった。そういえば座敷をホウキで掃こうにも座敷ホウキもない。葬祭式場での弔いが増えたが、誰がお茶碗を割っているのだろうか。土葬から火葬に変わり、また葬祭式場が充実するにつれ、葬送もずいぶん変貌してしまった。


 
 丑三つ時の旅立ち

 平見が続く和深・田並地域には、古座や他の地域では行われていない、一般的な葬式儀礼とは別に死者を海の彼方へ送りだす風習がいまでも行われている。
 この風習は那智の浜から船出して、海の彼方の浄土を目指した補陀落渡海を連想することができる。生きたまま小舟に乗り込んだ渡海僧たちの捨身行を今日理解することは難しいが、補陀落渡海と同じ宗教観からこの風習が続いているのだろうと考えられる。

 家内の郷里が和深なので、25年前の義父親の弔いの際にその不思議な葬法を目のあたりにすることができた。告別式も済み『アゲの膳』のとき、夜中に浜へ行って葬送の儀礼があると聞かされた。このことを『シオミ』に行くと呼んでいた。ちなみに昔は丑三つ時の真夜中に行っていたが、最近は12時頃に行う。「家を出発したらモノをユウたらアカンで」と言われた。いったい何が始まるのか・・・夜が更けるのを待った。



 12時前「少し早いがボチ・ボチ、浜へいこか」「途中誰に会っても、モノをユウたらアカン」と 又言われた。葬式とは別に用意していた「青竹」・「ワラゾウリ」・「ツトと言う、ワラずつにくるんだにぎり飯」・「上部を破いた麦わら帽子」を持ち、靴とワラゾウリという風に互い違いに履いて青竹を杖をつきながら真浦の浜へ行く。青竹にはワラゾウリとワラずつに包まれた握り飯がくくりつけられている。その杖を波打ちぎわの砂浜にさし立て、上に麦わら帽子をかぶせた。

 歯の折れた櫛を取り出し、頭の毛をといて浜辺に捨てた。隣の人は櫛を拾って髪をといて同じように捨てた。全員が同じことを繰り返し、終わると櫛を海へ流した。真っ暗闇の中、死者の霊魂は浜辺から海の彼方にある浄土へ旅立って行くのだと聞かされた。


 海の彼方にある浄土とはどこだろうか。ここの海は太陽が水平線に沈む西方の方角だから、阿弥陀様の住む極楽浄土なのか、薬師如来の東方浄瑠璃浄土、あるいは南方にある補陀落(観音)浄土か、はたまた静の峯に鎮座している潮御岬神社の祭神・少名彦名命が向かった常世の国なのか。

 私は熊野の地で生まれ育ったので、海の彼方に浄土があると信ずる宗教観にはまったく違和感を感じない。今でもお盆に新仏を海へ送り出している。子供の頃、お盆が終わると『鶴ガ浜』(西向地区の海岸)に沢山の供物と一緒に漂着する「流し舟」に乗ってよく遊んだものだった。お盆にお寺で貰ってくるショウロサマの小旗を、おはぎ・茄子・胡瓜などと一緒に小箱に入れ、今でも古座の人は川へ流している。しかし、和深での死者を浄土へ送りだす丑三つ時の葬送に一つのカルチャーショックを感じ、弔いの丁寧さと思いやりの深さに感動した。

 最近、田並地区の大辺路の古道を調査していると、『のうなぎの田の崎』の付け根にあたる磯の島に竹の棒が何本か差し込まれ、異様なものがぶらさがっているのをメンバーが見つけた。近づいて観察してみると、島に差し込まれているのは青竹で、青竹にはワラゾウリとワラヅツに包まれた握り飯と笠が結わえられぶら下がっている。まさしく和深の「シオミ」の一式なのは間違いない。さっそく田並のメンバーに尋ねて分かったが、隣り合った地域の和深における「シオミ」の葬送の仕方とずいぶん違っていた。






 葬式が終わり墓に納骨した後、ごく身近な親類だけで青竹、ワラゾウリ、笠、ワラに包んだ握り飯に小銭も持たせ、青竹を杖につきながら磯辺の島へ向かう。なんと此の島の名は「念仏島」だという。
 国道沿いの田並川・右岸の地区はこの『のうなぎ』の念仏島で死者を浄土へ送るし。左岸の向地の人は港の傍の念仏島で送る。向地の念仏島は島と言うより大石で、上部の穴のところに例の一式は納められていた。『のうなぎ』の念仏島に着くと島の割れ目に青竹の杖を挿し込み、島の上部にある窪みに小石を投げ入ると葬送の儀式は終わる。




 念仏島の割れ目に挿し込んだ杖は、余程大きな台風が来ない限り海に流れていかないため、地べたには朽ちたワラゾウリや笠などが散乱している。それに田並では櫛を使用しないと聞かされた。
 この葬送の磯辺は、沈む夕日と双島のコントラストが美しく、夕焼けの絶景ポイントである。「田並地名考(亀岡英治氏著)」によれば「小石を拾って島の上に放り投げて、念仏を唱えるのである」と書いており、島の名前の由来が分かる。又このことを『シオレ』・『シオデ』というと記されている。

 『シオミ』という風習を守り続けている和深の全地域では、各々地下の前の浜や磯で送る。安指の80才の方からは、「そうやの〜、一生のなかで、何回も何回も経験すること違うしの〜、潮をいただきに行く・・と言うたの〜」と聞いた。「和歌山県西牟婁郡串本町田子民俗調査報告書・成城大学」によれば「『シオミ』の時、潮を汲んできて家やその周囲、穢れているところを竹の葉で浄める。これを七浦の潮で浄めるという。」と記されている。どうやら「浄土へ送る」と「潮」が大変重要であるようだ。

 不思議なことに隣の有田から二色、潮岬、串本、古座、田原などでは和深・田並などのような風習は見受けられない。串本町それに古座川町と周参見町で聞き取り調査をする中、各地域には『シオミ』と違った「潮」に関する風習がいまも続いている地区や、昔、そのようなことをしていたが、いつの頃からかしなくなった地区もあることが分かった。



 「八日モドリ」とは

 大島では今でも『八日のシオカキ』が行われている。亡くなってから八日目の丑三つ時に、故人の親族は葬式で使ったワラゾウリを履いて、他人に会わないようにして黙って浜辺に行く。この時和深と同じように歯の折れた櫛を持参して、髪をとき浜に捨てる、隣の人が拾って髪をとき又捨てる。みんな終わったあとワラゾウリと櫛を海に流し家に帰るが、この時「振り返えったらアカン」といわれている。
 旅行へ行った時や退院などで家に帰ってくる時、『ヨウカモドリ』をするもんじゃないと言って、家を出てから八日目に帰ってくることを嫌う。普段の日に葬式の日程と同じことをするのを嫌うのだ。初七日が済んだ次の日の八日目に亡くなった人が戻ってくると言われているため、大島では初七日が終わった夜更けにあたる、八日の真夜中に『シオカキ』をする。 最近、潮を汲んできて、家の前で『八日のシオカキ』をする家庭もあるそうだ。


 和深に隣接する周参見町では『シオミ』は行われていないが、江住では八日目の日、家族全員で海へ行って「潮」で手などを浄める。
 周参見では古座・串本地域では聞き慣れない「両墓制」の風習が大正時代まで行われていたそうだ。国道から周参見川を少し遡った防地地区で、亡くなると周参見川のそばの「埋め墓」に埋葬された。お詣りに行く墓は持宝寺の後方にある「詣り墓」で。埋葬した墓を「捨て墓」とも言いい、十三年忌に「埋め墓」から骨を上げて「詣り墓」へ納めたそうだ。

 「日本民族資料辞典」の「喪葬」の執筆者、大間知篤三氏によれば、「両墓制には、死穢を忌避する観念、また、それに関連して死体を放棄して早く忘却にゆだねようとする観念がつきまとっているようである。(中略)第一次墓地をことさらに海辺の、大浪の場合には潮水をかぶる波打ちぎわに設けたり、川の水かさが増せば容易に水で覆われそうな川沿いの低地においたりしている事例もある。(中略)両墓制を伝えているのはみな土葬の行われた地方であって(中略)火葬によってけがれをよかれている遺骨には、もはや両墓制を必要とせず」と書かれていて、なぜ周参見川のそばの大水が出たら、水に浸かるような処に「埋め墓」があったのかその意味が分かってきた。
 串本町の近くでは周参見から田辺・日高地方にかけて両墓制があったが、火葬になってから単墓制に変わっていったそうだ。しかし現在でも南部町東本庄・辺川では両墓制が続いている。南部町・山本賢氏には「今でも土葬しているのは辺川だけやね。マツリ墓の近くに埋め墓があって、埋め墓には花筒と適当な石を置いている。だいたい両方へ詣るよ。」と教えていただいた。

 古座では八日になると「潮汲み場」へ行って潮を汲んできて、家の台所を主に浄める。身近な親戚へは汲んできた潮を紙コップに分けて配る。昔はカマドや釜の煤を掃除して、笹の葉っぱで潮を掛けて浄めた。大間知氏は「喪葬」の中で「葬家の火はけがれており、その火で煮炊きしたものも、またけがれているが、死者の近親だけは、そのけがれた火の食物を死者と共食すべきものとされていた。(中略)死忌みにおける中心の問題は火と食事である。(中略)死のけがれのことをヒとよぶ所が多い(中略)ヒガカリ・ヒガワリ」と記述している。そういえば、まだ喪の明けていない状態を「ヒガマエ」というのはこんなところからきているのか。カマドの神様は三宝荒神(こうじん)さまで火の神だから潮で浄めることによって、火の入れ替えつまり「火替える」・「カマドバライ」をするのだ。


 「八日の喰い分かれ」といって喪主の家で、八日目に帰ってくるといわれる死者の霊魂と別れの食事をする。これが済むと親族は自宅に帰ることができる。これがいわゆる「ヨウカモドリ」で、昔、兄弟など血縁の濃い人は喪主の家で7日間寝食を共にして「ヨウカモドリ」をしていた。だから普通の時に「ヨウカモドリ」をするのを忌み嫌うのだ。


 伊串では八日目の朝、『ヨウカのシオカク』といって潮を汲んでくる。葬家に集まっている親類の身体に浄めの潮を振りかけ浄めるが、むかしはカマドを浄めるのが主だった。葬式の時に履いたワラゾウリや青竹を川へ流していたが、今は墓の焼却場で焼いてしまうかワラゾウリには潮を掛けて置いておくそうだ。
 伊串の隣の姫地区でも『ヨウカのシオカク』をしていたが、昭和30年代ぐらいからしなくなったそうだ。


 この八日の「潮」に関する風習は海に面した地下だけだろうと考えていたが、「南紀小川の民俗」によると、「洞尾や椎平では、シオアゲといって、葬式の日に死んだ人の家で食事をした人は、八日間その家に泊まり、八日の朝、川へ行って手や顔を洗い、塩をふってもらって、櫛で髪をとかすまねをして家へ帰った。」この記述には少し驚いたが、各地でされていた葬式の「八日帰り」のことがよくわかる。
 古座川の奥では浜辺ではなく川原が海との接点になっていて、「潮」が「塩」に変わる。宇筒井(古座川町)の方から2年程前にも谷で『シオアゲ』の風習を行ったと聞いたので、そのとき「歯の折れた櫛」を使用しますか、と尋ねたが明確な答えは得られなかった。

 小川の方によると、今は川で『シオアゲ』の風習などはしていないが、昔の記憶によると、髪をといた櫛は川の中に捨て、隣の人が濡れた櫛を拾って髪をとく、それを繰り返した。だから「八日もどり」をすることを忌むように、「櫛に水を付けて髪をとくな」とか「櫛を投げて渡すな」と言う。

 古座奥の各地域で『八日のシオアゲ』の風習が続けられていないのか調査したが、添野川地区で子供の頃、小川地区の『シオアゲ』と同じことをしていたということを覚えていた方がいた。他の地区ではそのようなことはまったく知らないという返事がほとんどだった。
 添野川(そいのがわ)での『八日のシオアゲ』は、添野川神社の近くの竹藪の川原で小川地区のそれと同じことを行っていた。それとは別に、人が亡くなると川の決まった木に『スゲミノ』をぶら下げ、握り飯をお供えしていたことを覚えておられたが、その『スゲミノ』はどのような葬送の役割を担っていたのか、川へ流したのか燃やしたのかは今となっては分からない。ただ子供心に、川遊びに行くとき、その側を通るのが怖かったそうだ。
 

 驚いたことに、「ナダ」(灘)を望む峠の地蔵さんで『シオミ』をしていた地区があった。そこは古座川で唯一の高地集落である「峰」(みね)地区で、昭和30年代までその風習は続いていたようだ。海辺地域に住んで居る人達は、山間部地域を「オク」(奥)と呼んでいる。古座の人は古座川上流へ行くことを「オクへ行く」と言い、上流部地域の人を「オクの人」と十把一絡げにして呼ぶ。「オクの人」は海岸地域を「ナダ」(灘)と呼ぶから、古座・串本・有田・田並で暮らしている人は「ナダの人」」になる。40〜50年前、「オク」の子供は古座へ出かける時、「古座イキ」という「イッチョラ」(晴れ着)の服に着替えて出かけたそうだ。 

 「峰」といえば昔から「峰の薬師さん」や「水呑大師」が有名で、「ナダ」の人は峠を越えてお詣りに行った。今でも1月12日の薬師如来の御祭礼には、多くの参拝者で賑わう。「峰」から「ナダ」へ行くには山越えで吐生(はぶ)を経由して有田へ出たり、「ナダ」を望める峠を越えて田並・江田・田子へと行った。この峠には峰の人らが「方角地蔵」と呼んでいる地蔵さんが祀られている。「方角地蔵」の由縁は、「右・むねみち」「左・ミとがハみち」と刻まれていて道標になっている。「ナダ」から登って来てくると、この峠を右へ行けば「峰」へ、左へ進めば「水呑大師」を経由して、南平(なべら)や三尾川(みとがわ)の方へ行ける。「ナダ」と「オク」を結ぶ峠道だった。
 葬式も済んで何日もたった後、一升瓶やヒョウタンを持って、「ナダ」へ下り「潮」を汲みにいった。葬送の日、「潮」・「青竹」・「ワラゾウリ」・「ツトにくるんだ握り飯」・「笠」・「スゲミノ」を持って、峰から山道を峠まで登って行く。海の見える「方角地蔵」の側に青竹を差し立て、青竹の周りに「潮」を掛けて浄める。その時「方角地蔵」にも「潮」を掛けて浄めていたから、「潮カケ地蔵」とも呼んでいる。丁寧なことに、ここでは生前、死者が使っていた「スゲミノ」が「シオミ」の一式に加わている。こうして峰の地区では「枯れ木灘」を望む峠の「潮カケ地蔵」の側で死者を浄土へと送っていた。

 「青竹等はその後どうするですか」と区長の中本博繁氏に尋ねたところ、朽ちていくまで、そのままにして置いていた。「ツトにくるんだ握り飯はの、カラスらが食べてくれるんや、そやから成仏出来るんやの」。その時櫛は使わなかったですかと聞いたところ、「櫛は一回も使ったことはないの、櫛ゆうたらのを、アシ(自分)の母親の姉さんが三輪崎へ嫁ったあっての、葬式に行ったら北向きに着物を干したり、真夜中、浜へ行ったらの、櫛を取り出し、海に背をむけてみんなで髪をといたんや。最後の人は後ろ向きに海へ櫛をほったで、処替われば品変わるていうけどの、子供の頃から落ちたある櫛は拾ったらアカンて聞いていたけど、このことやってんの、もう50年も前のことやの。」


 
 願もどし

 一つの経験から思い当たることが大間知氏の記述にあった、「願もどし・・葬式のすぐあと、あるいは翌日あたりに、死者が生前に神仏に対してかけていた願を、引き下げる行事が行われる。扇の要をはずして屋根に投げ上げたり、いろいろの食物をまいたり、茶碗などを割ったりして、祈願の断絶を表明するのである。」である。墓に供えてきた一膳飯などはカラスなどが食べてくれないと困るわけで、明くる日にお墓にお詣りに行っても、また次の日も、お供えした日と同じ状態だった場合、「願をかけたままで亡くなっている」として死者は成仏できないと考えられている。


 「エロスの国・熊野」(町田宗鳳・著)に「愛知県の熱田神宮や津島神社、広島の厳島神社などに伝わる鳥喰神事では、カラスに餅を与えて神意を伺い、カラスが餅を食べないかぎり神事が始められないことになっている。」と記されていて、このことは神事における占い的要素が大きい。我々の住む地方では、葬式後に墓へ供えられる供物は「鳥が食べてくれることによって、霊魂をあの世へ運んでくれる」という考えがあって、供物が食べられずそのままの場合に「願もどし」が行われる。大間知氏の記述に似て「米を一握り掴んで、屋根を越すようにして投げる」ただこれだけなのだが、不思議なことに次の日お供え物はきれいになくなっていたのを記憶している。

 四十九日にこの「願もどし」によく似たことをする地域がある。古座川町小川の宇筒井地区では『クニチモチ』と言って50個の餅をつく。50個の餅をお寺へお供えし、和尚さんが知らないうちにそのうちの一個を家に持ち帰り、家の屋根を越すようにして投げる。
 古座でも50個の餅をつくが、49個の餅は小さく1個だけは大きい。お寺にお供えするとき大きな一個を山門の敷居に置いておき、これを家に持ち帰ってみんなで分けて食べる。四十九日の間、棟にとどまっていた死者の霊魂は、餅をつく杵の音を聞くと家を離れていくと言われている
 大間知氏の記述による「願もどし」をしなければならない「願かけ」とはどんな状態になることなのか知りたいが、大間知氏が亡くなった今となってはもう叶わない。


 真夜中、死者の霊魂は肉親に見送られて海の彼方にある補陀落(観音)浄土へ旅立つ。
 葬制のなかで和深地区のこの儀礼が一番葬送らしいと感じている。「丑三つ時」・「無言」・「青竹」・「ワラゾウリ」・「味噌と梅干し入りの握り飯」・「笠」。「波打ちぎわ」・「歯のおれた櫛で別れの儀式」・「旅立ちの見送り」・「潮くみ」・「振り返らない」。この風習は熊野の和深・田並地区だけに存在するのだろうか。ほかの葬制については大間知氏の記述に色々見ることができたが、この『シオミ』に関する似たような記述を他の本でも見つけることはできなかった。

 「古事記」では、イザナギノミコトが黄泉(よみ)の国へ入っていき、イザナミノミコトを迎えに行くとき「櫛の歯を一本折って、火をともした」。見てはならないイザナミノミコトの醜い姿に驚いて逃げ帰る時「櫛の歯を引きちぎり投げ捨てたら、タケノコになった」。これらの記述を詳しく読めば『シオミ』で歯の折れた櫛が使われるのは、永遠の別れの儀式だということが理解できる。この黄泉の国での記述によって、「人は亡くなると、どのようになってしまうのか」日本人の死に対する観念ができあがっている。



「潮」の呪力

 いままで葬送に於ける「潮」を主に考察してみた。
 「別れの旅立ち」それに「八日の潮」、海に接し暮らしている人々にとって「潮」とはなんなのか、「潮」にはどんな霊力が秘められているのだろうか。
 「祭りごと」の場合、「潮汲み場」という決まった磯で「潮筒」に「潮」を汲んできて、笹の葉で振ることによって、そこは鳥居をくぐって境内に入って居るのと同じ清浄な空間になる。神宿る神聖な処に「潮」を捧げるのも新しく神宿り処を浄めることなのだろう。
 「葬式ごと」の「潮」には「火」の穢れを浄める「力」あることが荒神さんの「火を替える」で理解できる。
 陸地の空間と海の空間の接点にあたる浜を境界にして、陸地は人間の世界だから、海は神仏の世界にあたる。陸地の内において「過去を消し去り」そして「聖なる空間」を創りだせるのは「潮」であって、人々の信仰心の中で「潮」には「海の彼方」の浄土を「人間の世界」に創りだすことができる呪力があるのだろうと想像する。


 『漁師方』における「潮」の大切さは『オカド』(漁師以外の人)の人にはなかなか理解できない。古座では「潮」と一緒に『アライニン』という供物を奉納する。小皿に米と小豆を少々いれ、水で数回洗ってから、お頭付きのアジの干物を腹合わせに載せて、御神酒を少し入れたのが『アライニン』という供物である。たとえば 7月24・25日に執り行われる『河内祭』(こうちまつり)のとき、 古座川の深淵に鎮座している自然崇拝の神宿る島・『河内様』(河内島)に上陸して、竹筒の「潮」と角樽(御神酒)に添えた『アライニン』を河内島の頂上の聖地に奉納する。また正月の2日に古座浦の九龍島の弁天様に初詣をするとき、船の『フナサマ』(船様)に『アライニン』を供え、九龍島の弁天様が拝める海上に着くと、「潮」をくみ上げて船首を三度浄める。このとき自然と『チョイロ』と口ずさみ、同じ様に御神酒で船首や艫を浄め、海に『アライニン』を奉じて流す。また不漁の時や、漁の変わる時期、進水式、家の新築などに個人が縁起をかついで災難除けや魔除け、それに豊漁を願って『アライニン』をするのである。

 
 「潮」の持っている「浄め」という「彼方」の呪力の強さは偉大である。 「潮」の儀式は『シオミ』・『シオレ』・『シオデ』・『シオカキ』・『シオカク』・『シオアゲ』など地区によって呼び名は変わっても「シオ」は同じである、「潮」は死の穢れを払うということのようだが、肉親が亡くなって「家」が穢れるという考えは、現在、暮らしていく中で一般的に理解しがたく、「潮」の本当の役割は亡くなった人の為にこそあると考える。現世での死者が背負っていた「病」・「悩み」・「願い」・「罪」・「喜び」などを総て「潮」が消し去ってくれて死者は身軽になれる。送りだす親族も「潮」で浄めるのは「死の穢れを払う」のではなく、死者の家族への想いという現世へのしがらみを消して、浄い御霊になるためだろうと考える。丑三つ時、死者は親族に見送られて海の彼方の補陀落(観音)浄土へ旅立っていく。


 ここ熊野は常世に一番近い処、南端に立つと円を描いた水平線の東方には東方浄瑠璃浄土、南方に補陀落(観音)浄土、西方に極楽浄土と彼方を一望できる。
 彼方に旅立った死者と現世に生きる人は海を通じてずっと心が繋がっている。






 聞き取り取材協力者 
 周参見町  木村甫氏・小倉重起氏
 南部町  山本賢氏
 串本町  枡田義昭氏・泉喬氏・平田義輝氏・竹内登氏・浜泰央氏・山本登氏
 勝山順一氏・竹中郁一郎氏・河野九一氏・土肥勇氏・方森千代治氏
 古座川町  前進一郎氏・後地勝氏・中裕氏・山本照一氏・中本博繁氏
 参考文献 

 古事記祝詞(岩波書店)
 日本民俗資料辞典(喪葬・大間知篤三)
 南紀小川の民俗(東洋大学)
 古語辞典(旺文社)
 田並地名考(亀岡英治・著)
 和歌山県串本町田子民俗調査報告書(成城大学))
 エロスの国・熊野(町田宗鳳・著)

資料提供  山口登志夫氏
  

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