熊野の日本狼
上野一夫


 大峰山寺(山上ヶ岳・1719m)のすぐ下にある桜本坊宿坊を午前6時出峯した時、山中は灰色の雲に覆われて横なぐりの雨が吹き付ける時化だった。那智山青岸渡寺副住職の高木亮英氏を導師とする熊野修験・秋峯入りに参加しての3日目、吉野の蔵王堂・そして最終目的地である第75番靡(なびき)の吉野川・柳の宿をめざす。
 ぬれた岩場の参道を滑らないように注意してくだると、西覗きと呼ばれている断崖絶壁の行場に着いた。自分もそうだが初入山者はここで荒行をこなさなければならない、子供の時親父がここで体験した捨身行の話しを聞いていたので、これからどんなことが始まるかわかっていた。

 崖下からモヤのような雲が台風くずれの強風に吹き上げられ、いったいどんな所にいるのか周りはなにも伺えない、ロープをタスキ状に懸けられて崖の端に伏せる。先達が大声で命令した。「合掌しろ」・・・・両手に力が入り強く合掌したとたん突き出され。どんな問いに反応したのか覚えていないが、大声で「ハイ」と返事したとたん・・・さらに突き出され「ウッ」と声がでて体が硬直した。絶壁の岩だなには無数のミヤマリンドウが咲き乱れ、荒行を行っている行者達とはまったく無縁の世界が広がっていた。


 ブナ・トガの原生林が荒波にもまれるようにシナリ、激しい葉音をたて風のかたまりがふきあがっていく。ぬかるんだなびき道に足をとられ膝が痛み遅れだしてしまった。 吉野側の女人結界門である五番関を過ぎ、百丁茶屋跡でボランティアの方からお菓子と紅茶の接待を受け、元気を取り戻し気力がわいてきた。 この頃から風もやみ空が明るくなてきて、それまでモヤに覆われていた山々が遠望出来るようになってきた。自然林が姿を消して有名な吉野杉・檜の人工林が続く、四寸岩・青根ヶ峯へと続く稜線のなびき道は、吉野を東と西に分けている。西側(左手)のはるか下界に吉野川が光り、東側(右手)は深い山々が延々と続いていていて東吉野だとわかった。下方に見渡せる山々はほとんど人工林でどこまでも広がっている。

 東吉野村の鷲家口に明治38年1月(1905)、米国人マルコム・アンダーソン氏と助手の金井清氏が、吉野地方に棲息している動物の収集に来ていたとき、猟師が捕獲した「日本狼」の死骸を持ち込んできた。8円50銭で買い入れ、標本として処理された日本狼の毛皮と頭骨はスポンサーだった大英博物館に今も保存されている。
 写真でみる限り灰色のフサフサした毛皮で、山の神使いだとされていた日本狼の姿を想いうかべることが出来るほど生々しい。いったい自然界にどんな異変が起こったのか・・・・・、この灰色の日本狼を最後に日本には1匹のオオカミもいなくなってしまったようだ・・・?。 約30数年まえの映画「イージーライダー」で二人の主人公が突然ライフルで狙撃される、驚きのラストシーンが今も脳裏に焼き付いているように、なんの前ぶれもなく自然界から人々に畏怖されていた一つの種が忽然と姿を消してしまうなんて・・・そんなことありえるのかな・・?。

 幻の獣になってしまった日本狼は。大台ヶ原・大峰連山・果無山脈・・等山々で遠吠えを聞いた・送り狼にあった・毛の混ざったフンを見つけた・狼の子供の死骸を発見した(実はタヌキの子供だった)・山奥で狼とおもわれる獣を目撃した・・・・・等いろいろ世間の話題になり幻の獣を追い求める、冒険心を駆り立てたのだった。鷲家口のあの日からもうすぐ100年に成ろうとしている現在でも、「山中で日本オオカミの写真撮影に成功」といったガサネタの報道が世間を騒がせたり。高知県・仁淀村で「江戸時代、火縄銃で撃ち殺した日本狼の完全な頭骨が屋根裏で発見」・・・と話題になったりして、日本狼がどこか山中で棲息していてほしいと想う願いは。自然保護への盛り上がりとともに、自然回帰・自然崇拝における癒しの体感へと探求心を駆り立ててくれる。


 青根ヶ峯を横まいて奥千本の義経ゆかりの金峯神社でしばらく休憩したあと、蔵王堂を目指しアスファルトの道を無言の行で下った。3日間における大峰連山での、想像をはるかに超えたきびしい山林トソウは自己の甘えを打ち砕き、ここまで連れて来ていただいた先達にただただ感謝するのみだった。

 大峰奥駈修行には、75の靡(なびき)という行場があり、本宮証誠殿が1番・速玉新証殿が2番・那智山飛龍権現が3番の靡で、吉野川の柳ノ宿が75番の靡だと教わった。

 3月初旬の春峯入りの那智山から1日駈けて本宮大社までから始まり、4月は本宮大斎原から玉置神社まで、5月は玉置山から行仙の山小屋に1泊して前鬼まで、そして秋峯入りが9月初旬に十津川旭林道登山口から釈迦ヶ岳(1799m)・八経ヶ岳(1915m)という近畿の最高峰を越して弥山の山小屋で1泊・行者還岳・大普賢岳(1780m)から山上ヶ岳(大峰山寺・1719m)の宿坊に2泊目して、吉野の柳ノ宿までの足かけ7日間かけて、大峰奥駈道を駈ける。伊勢に七たび・熊野に三たび・それに大峰に一たびと言われているように、神々がいます聖地なのである。


 特に大峰奥駐道を中心とする大峰山系は日本で唯一ごく近年まで日本狼が棲息している山々だとされ、日本狼の絶滅を信じていない人達がその痕跡を探し求め入山したという、修験の山々は、那智の原始林と同じように原始林が深い山々を覆っていて、この原始のままの森を駈けていると幻の日本狼に出合うんじゃないかと想いをふくらませ心がワクワクしてしまう。動物界の食物連鎖の頂点にいた日本狼が明治38年1月を境に神隠しにあったように忽然と姿を消してしまった。

 天敵がいなくなりおまけに狩猟人工の減少によって、サル・イノシシ・シカ・カモシカなどの棲息数は増加しつつあり、農家の人々とトラブルを起こしている。今唯一食物連鎖の頂点に立っているのがイヌワシである。羽を広げると2mにもなり、ウサギ・サル・子鹿を狩る。イヌワシだって日本オオカミと同じ道をたどるかもしれない、熊野の山々で自分はまだイヌワシに出合ったことがないが、飼育されているイヌワシは知っている。江戸時代鷹匠はイヌワシを鷹狩りに使役するのを禁止されていたという、人間の子供をおそうおそれがあった為である。

 熊野地方における狼に関する伝説・伝承も人々の記憶から忘れられようとしているが各地には、思っていた以上に狼にまつわる話が伝わっている。
 子供の頃シートン動物記の「狼王ロボ」を愛読してからオオカミファンになっっていたし、それに6年前からアラスカ狼94%の狼犬「バルト」を飼育して狼らしい行動、狼らしい遠吠えを教わった。那智山系の色川地区を源流とする二つの河川に、古座川の小川と太田川がある。
 太田川の河口の下里のとなりに鯨で有名な捕鯨の町太地には、ミズカキのある太地犬がいたという、つまり紀州犬の元祖である地犬であるらしいが今太地犬なんて聞いたこともなく、誰もそんな犬種がいたことすら知らなくなっている。

 江戸時代『民間での狼の呼称が一般にオイヌとなっていて、オオカミという名は熊野地方海岸方面で足にミズカキを持つ、形のよく似た野獣であるが、山間には棲息しない野獣のことだという一説があった』という記述が(オオカミはなぜ消えたか・千葉徳爾氏著)あることから、もしかしたら捕鯨が栄んだった時代太地の地犬と海岸部にしか棲息しないオオカミと呼ばれていた獣との雑種が太地犬と呼ばれていたのかもしれない、(熊野太地の伝承・滝川貞蔵氏遺稿)にもくわしく太地犬について考察されている、それによると太地犬にはミズカキがあって、イノシシ猟に使うとこの犬にまさる犬はいなかったという。和漢三才図絵に「狼にミズカキがあってよく水を渉る・・・・・」と書かれているが、太地の犬を調べてみても残念ながらミズカキが全然みあたらないとある。

 そしてミズカキが問題ではなくたまに犬の雑種にみられる、うしろ足にある過剰指をミズカキと呼び、それは犬が岩場を駆け下る時足の滑るのを防ぐために使う「イワカケ」のことだとも書かれている。だけど誰がいいはじめたのか「イワカケ」はブラブラしていて実はなんの役にも立たないただの過剰指である、今はこれをケヅメとか狼ソウ(ロウソウ)つまりオオカミのデキモノとも呼ぶ、江戸時代のオオカミの姿絵にこのミズカキなる過剰指が絵がかれているのがあるので、そういういい伝えからこのような伝承になったのだろうか、普通オオカミや犬にはみられないがまれにうしろ足に過剰指がみられ、シベリア狼とマラミュートのハーフの狼犬の後足に付いているのを4年ほど前に見たことがあるが、なぜこのような過剰指が出てくるのか知らないが何か遺伝的な要素が関係しているのだろう。

 狼の話・熊野誌二号橋本嘉文氏著によると、「太地犬は三輪崎の鈴島に泳ぎ渡り、弁天様の庄下で産するものに限ってミズカキがある・・・」、それならイワカケではなく水鳥にある指間の皮膜のことかな・・・?。太地と三輪崎というからには、太地の鯨方の宰領だった太地角右え門の勢力の大きさを想像してしまうし、太地犬は鯨肉をむさぼり食っていたのかもしれない。それに勇壮な鯨方の名宰領の地下の犬だから、猟にするどいとして熊野一帯を始め北山の奥地まで名をのこしたのだろう。
 オオカミや犬の指間にはミズカキがある、ウソとおもうなら飼っている犬の指をひろげてみるとわかる、特にオオカミは犬より指が長く大きいためにより指間のミズカキがはっきりしている、飼育していたアラスカ狼94%のオオカミ犬「バルト」にもりっぱなミズカキがある、彼らは雪原、どろ地を駆けぬける時、ミズカキかカンジキのような役目をするとおもわれる。


 古座川に棲息していた狼は、先ほどの話にあった海岸部に棲息していたミズカキのあるオオカミなのか、山間部に棲息していたオオカミなのかどちらなのかわからないが・・・・・?古座町にはもっとわからない異獣が棲息していたようだ。
 240年前の宝暦十一年(1791年)の熊野年代記(熊野誌47号「熊野年代記」倉本修武氏著 )によると、古座町佐部で三月十一日に異獣を打ち取り新宮の役人に見せ出すとある、その獣は狼同様のものにして上アギに二寸の牙が一つ有り、長さ二尺七寸、前足一尺七寸、後足一尺八寸、尾丸一尺、長さ一尺一寸あり、犲(狼に似た動物であるとされている) 、牛、犬を食うと書かれている、倉本先生はこの異獣こそ珍獣中の珍獣である雷獣のことであろうと記述されている。
 佐部で捕らえられたこの異獣はいったいどのような動物なのかニホン犬よりかなり大きく、約6pの牙が一本ある・・・・・牛を食うと記述されているところをみると、佐部の人々はこの異獣の危険性を十分認識していたようだ。

 「狼と同様」というところが気になるが・・・想像上の怪物である雷獣なのか・・・大きな山猫なのか・・・?いやいやもうこの異獣の件と海岸部や山間部の狼についての話しは、いったん考察をやめないと次へと話しが続かなくなってしまう。


 古座川は大きく川を分けると大河と小川から始まっている、小川は那智山系の北の端の小麦の小川から本川は大塔山(1122m)のふもと大河(タイコウ)からである。
 大塔山は昔、狼・熊・怪鳥が住むといわれた大原生林だったが今は、稜線部に原生林が残っているだけである、原生の森は数十年前田辺の見識ある方々が中心となり伐採の大反対運動によて護られたからこそ原生の姿をとどめているのである。
 古座川最源流になる大塔山は明治時代から天然の杉・檜・ツガ・モミの伐採に始まり昭和十年松根保郷会が大阪営林局と契約し官行造林山として杉が植林されている。その大河でのオオカミに関する聞いた話である。

 オオカミは生きた人間を襲わないと言い伝えられているが、大河の奥山で木々の伐採中事故に会い亡くなった人を戸板に乗せて地下に下るとき不思議にオオカミが姿を現したと聞く、「オオカミはのら、人がケガしたあるか死んだあるかわかるんやのら」運んでいる人の足本をすりぬけうろつき、つきまとったんやオヤジからヨー聞いたの・・・ほんでの、平井と西川との峠に夕方になると群をつくったオオカミがエサを求めて行くのを見た時のよく朝、ションベンタゴを見るとオオカミになぶられてカラッポになったんや「アリャ・・オオカミのシワザヤ!」オオカミは塩が好きだといい伝えられていて、山奥では塩気のある人間のションベンをなぶりにくるんやの。

 新宮市の高田の奥山に棲息していたオオカミは峠を越えて佐野の浜へ塩をなめにくるんでその峠を狼峠とも呼んだと三輪崎の方に伺ったし、少し新宮よりに狼谷という地名もある。北山では山小屋の外にションベンタゴを作らなかったという、夜中オオカミがなぶりにくるからだ。
 奥の人が古座で魚を仕入れた帰り道、「日が落ちてまうと、必ず魚がほしいのかオオカミが後をつけてきたの、こけるとオオカミが飛びかかってくるっちゅうからちゃんと歩かなの・・・送り狼やのら」

 自分が中学生の頃、池ノ山の奥へ紙素(ガンピ)を採りに行ったものだ。山桜によく似た樹皮のカミソの木を根元で切っていっきに樹皮をむく、束ねてナップサックにいれアソコの山・コの山とカミソを探して歩き回った、植林地のはずれとか尾根筋などによく生えていた。集めたカミソの樹皮を干して乾かし近所の取次店へ売りに行く。そんなとき昼弁当を食べるときは、側の枝から箸に調度いいのを折り、ヒゴノカミ(ナイフ)で型をととのえ即席の箸で弁当をたいらげる。その後山で調達した箸は必ず二つに折ってから捨てた。 今でもそんな時自然と箸を折ることが習慣になっている。

 十津川教育委員会からいただいた、オオカミに関する資料の中に思いあたる答えがあった。 「必ず二つ折りに折ってから捨てる、それは後へオオカミがやって来た場合捨ててある箸を拾って、四っになった箸をヒシ型に合わせ自分(オオカミ)よりはるか大きい口の人が来たので、これはかなわぬとおもってオオカミの方から逃げるからだと言い伝える」。


 それに古座川の川丈の和田寛氏に伺った ところ「山に棲む悪霊が、その箸を武器にして襲ってくるから、それを防ぐ為にハシを折るのだ」。なんとなく話しの内容がよく似ているようにおもわれる。 つまり現在登山とかで入山する時、一般的な注意事項とはおもむきが少しちがった、山中における掟ての一つなのだろうと考える。
 ささいなことだが、このような迷信というか習慣が日常生活において沢山ある。たとえば古座ではよその家に行った場合、「必ず家の屋敷に入って行った所から出て帰る」絶対屋敷内を通り抜けしてはアカンのです。漁師町だから網に入った魚が逃げてしまうという縁起カツギの一つなのだという。

 熊野の各地で撮影された映画「火まつり」(原作・中上建次氏)において、主人公(北大路欣也氏)が山仕事をしていたときワナをしかけてウサギを狩る。そのククリの針金をサカキの木に掛けたので仲間からたしなめられる。そんなワンシーンを思い出した。監督柳町光男氏 とは映画の製作中2度ほど合っていろいろお話しを伺った。「熊野の山中は、モノノケの存在が感じられ怖い・・・」と話されていたのが印象的だった。

 三月の初旬、午前六時三十分 那智山青岸渡寺を出峯する。高木亮英導師率いる熊野修験春峯入りが今年も始まった。
 粉雪が舞い色川側から吹き付ける北西の風が冷たい、舟見峠から大雲取山の地蔵茶屋へと続く熊野古道は、「亡者の出合い」と言われていて妙に淋しい所である。途中大雲取林道を横切り古道を進む、もうこの辺は那智の大滝の源流域ではない。
 たまに大雲取山が大滝の源流だと書かれている本もあるが違っている。大雲取道は分水嶺になっていて、東側は高田へ・西側は滝本へ流れていて高田川・赤城川となり熊野川へと流れ出ている。 先達に続き大勢の人たちと駆けているのに、いつも体の芯が「ジンジン」してきて急に五感がサドくなる辺がある・・・・。だから「亡者の出合い」なんて言われているのかと独り言をつぶやく。

 「熊野修験道大本山極秘伝」(熊野の研究・二河良英氏著)によると、「色川村、地蔵山の宿迎え大狼出ることあり」とあるから、大雲取には大狼が棲息していて、修験者・参詣者の人たちはこの大狼に出合ったのだろう。だけどこの大雲取山にはもっと恐ろしい怪物がいたという、この怪物はここ熊野だけじゃなく北山・十津川村にもいたという「一本タダラ」である。
 雪の積もった深山に点々と一列になって規則ただしく続く足跡が、山に棲む「一本タダラ」があるいっていった跡だと伝う。

 大雲取山の東側の麓の高田村の(十津川村教育委員会・瀞洞夜話)、権之頭(ゴンノカミ)家の伝承は那智山へ参詣に行った折り、この山中で狼に出合い衣の裾を咬えられて・・岩屋へひきこまれたところ、すぐ側を怪奇なる「一本タダラ」が通っていったという。
 狼に命を助けられたのだがお礼をするにも何もなかったので、私が死んだら屍を食ってくれと約束したという、代々葬式の後狼に墓を暴かれたので・・・、家の中庭に墓を移したがやはり狼が出没したと伝う・・・・。

それにこの怪物は那智の山中をうろつき色川村の人々にも害をもたらし。地下の人々が困っていたのだが、仮屋刑部左え門の働きによりこの「一本タダラ」は退治されたという、村の人たちはこれらの功績を称え神としてまつっている。大戸平の熊野古道の側にも碑が建てられている。
 ふと思いついたのだが、雪山に一列に足跡をのこす動物がある。オオカミかキツネなどである。姿を見ることがなくてんてんと続く足跡は怪奇な怪物「一本タダラ」の伝説をつくりだしたのだが、その正体は地蔵山の宿に棲息していた大狼だったのだろうか・・・?。

 那智の山々には、岩屋という自然の岩窟があり古代修験者がそこにこもって修行したという。千年も前、陰陽師・阿部晴明が妖魔をとじこめたと伝わる白庫降魔窟がどこかにあると伝う。それら岩窟は那智の山に棲む大狼の棲家の一つじゃなかったんだろうと想像するだけでも那智の山々の奥深さが感じられて楽しくなる。

 地蔵茶屋で勤行のあと、林道工事によって今は荒れてしまっている奥比丘女滝のすぐ下流の橋を渡り険しい石倉峠・越前峠を越えて小口へ下った。「小雲取山は小口村大山ノ宿あり送り大狼出ることあり」とある。熊野古道で一番険しいと言われている大雲取越山中には、那智山へ参詣する人々を出迎えたり、みまもり安全に送る神使い大狼が棲息していたようである。

 小和瀬の橋を渡って、桜茶屋跡を目指し小雲取の急な坂を一歩一歩登る。振り返ると先ほど越えてきた那智山系の山々が黒くそびえ立ち 、よくあんなに遠い所から歩いてきたものだと感慨にふけった。大雲取の迎え大狼・送り大狼に出合うこともなく、小雲取山(如法山)を越して夕方五時前本宮大社に到着し証誠殿にて勤行のあと解散した。


 四月初旬朝八時三〇分すぎ本宮の大斎原を出峯し熊野川の浅瀬に素足を洗い、まだ冷たいセセラギの音を聞きながら対岸の備崎まで渡る。つまり禊ぎをするのである。
 ここから大森山(1078m)までいっきに急登し玉置山をめざす。いよいよ大峯奥駈が始まる。第一番の靡(ナビキ)である大斎原の杜が一望に見渡せる、大峰山より七つめの峯にあたるところから名ずけられた七越の峯・そして吹越の宿を過ぎアスファルトの林道を通りながら、もうずいぶん時間がたっていたのだが下方を見渡してみると、まだまだ本宮の辺を歩いていただけで大居の地下が見える、十津川はどこら辺で熊野川に変わるのかなんて独り言を言う。

 先達は後に続くみんなの進行状態をよく把握されていて、歩きやすいペースでついていける。小さく見える人家を確かめながら一家の家にあたりをつけることが出来た、・・戎氏宅は確かあの辺だ。 
本宮の観光協会長をされている栗栖敬和氏から大居の戎氏宅に「日本オオカミの牙」があると教えてもらい、ご紹介していただいた。田辺のオオカミ研究家の谷上氏と友人の三人で訪問したことがあえる。牙だけだと伺っていたし伝説の話しじゃなく本当に実物を拝見できるので、やはり奥熊野本宮らし土地柄だと思いワクワクした。

 タンスの引き出しから取り出しテーブルに置かれた骨付きの牙を見た瞬間「おおー」と声をだしてしまった。自分にとってまったく想像していない形状だった。 天王寺動物園のオオカミ舎のまえに中国オオカミとシベリアオオカミの頭骨を展示している 。それに自分が会員である日本オオカミ協会・関西パックの「オオカミそして自然環境」の講演会において、高知県・仁淀村の旧家の屋根裏で発見された。江戸時代に狩られたオオカミの完全な頭骨実際手にして、古代ニホンイヌ研究・岩田榮之先生より解説を受けている。そのオオカミは、ワナにかかったところを火縄銃で撃ち殺したと伝えられ、右の額に直径1pほどの丸い穴があいていた。

 本宮の日本狼のアゴ骨を手に取って見つめると、その形状から下アゴだとすぐにわかった。門歯より6.4cmのところできれいに切断されていて、下アゴの左右の牙の直径は1.3cm・牙の長さは2.5cm・アゴ骨の牙と牙の幅は2.55cmもある。全体にウルシが塗られ中心部に穴があけられ、そこに丸く加工された 金属の飾りが はめられていて、組みひもを通して巾着の「根つけ」になっていた。巾着は印鑑入れになっている。タバコ入れの「根つけ」だったら使いこまれていて牙の欠損があたかもしれないが、 大事にしまわれていてきれいに原型をとどめている。

 谷上氏によると、このような日本狼の「根つけ」を和歌山県下で5体ほど確認していて牙の大きさから日本狼に間違いないと言う。そういえば日置川の源流の1つである将軍川・大瀬の福井家にも「オオカミの牙」が伝わっていたが、数年前火事にあい不明になってしまっている・・・と日置川公民館の方が話してくれた事を思い出した。非常に残念である。
 幻の日本狼は、熊野の地に伝説しか残していないのかと常に疑問におもっていたが、棲息を確認する個体の存在が証明されてますます「熊野の日本狼」がみじかに感じられるようになった。

 宝きょう印塔を過ぎ山在峠の尾根道を急登する。西よりの風が汗を掻いた体を吹き抜け気持ちがいい、戎氏が子供の時よく祖父からオオカミの話しを聞いたと言う、山在峠にオオカミが出没して遠吠えが地下まで聞こえたという。
 西側は切畑で東側に篠尾(ささび)の地下が見渡たせ、めざす正面の大森山の稜線が大平多山・甲森へとなだらかに続き、あの先に北山川 が流れているんだと頭の中に地図を描いた。 秋になるとマツタケがでそうなアカマツ林を汗をかきながら登る。

 日本狼の「牙つきのアゴ骨」は・・・不思議な根つけの飾り物である。昔から狩った動物を人間は、おおざっぱに防寒用・敷物・食肉・漢方薬・・・等として日常生活に取り入れ利用してきたのだが、一般的にこの根付けの骨についてどうも理解する事が出来ない・・・。農耕民族の日本人にとって、田畑を荒らすサル・シカ・イノシシを喰ってくれるオオカミは、「山の神の使い」とされ「大口の真神」として神格化されていた。
 それゆえに、獣王であるオオカミの牙つきの骨を身につけ、頭骨を家の中に置くことによって、盗難・疫病がおこらない・病気を治す・牛、馬を手なずけられる・山に入っても身の安全を守ってくれる・・・・。つまり「魔をかみ砕く神力がある」・・・とされ信仰の対象としてのお守りだった。

 古座獅子(国指定重要民俗無形文化財)を舞わしていると、孫を抱いた地下の人が側に来て「頭を咬んでくれんし」・・と頼みにくる。怖がる孫の頭をカバチ(獅子頭)を使ってそっと咬んでやる。「獅子に咬んでもらうと、病気にならず健康に育つと言う」。獣王の日本オオカミ、中国から伝播し日本で独自に発展した空想の神獣である獅子(獅子舞)・・・・なぜか共通する似通った信仰がある。

 汗をかきつつ大森山の山頂らしきところまで登り詰めた、そこに小さな手書きの看板があり「大水の森」(1044m)と書いてあった。1000mもある山頂なのになぜここが「大水の森」なのか疑問に感じた。ブナの木が初めてみられるようになったのだが、なんとブナが古道の道側に垣根のように一列に並んでいる。山頂まで植林されているので、サイメの木として残されているだけなのだ。しばらく進むと大森山(1078)の山頂に着き休憩した。 風が少しひんやりして来て涼しくなってきた。

 北側の真正面に玉置山(1076m)が望め、山頂の少し下に今日の目的地である玉置神社の杜がみえる。まだまだここから二時間ほどかかるし、尾根からそれて急勾配の檜林をジグザグに降りる 、自然林にはずいぶん遅咲きのコブシの花が咲いていた。約樹齢百年ほどの杉・檜の植林地を過ぎて、しばらく進むと北山川の玉置口と十津川を結んでいる林道に出た。ここが「本宮の辻」でここから玉置神社へと続く上がりのナビキ道が正統な参道だと教わった。

 十津川の玉置山周辺にはオオカミに関する伝承が沢山ある、橋本嘉文氏の著によると「玉置山の使いものはオオカミで、タヌキ・キツネつき退治に良く効くと言う」、つまりタヌキ・キツネの霊にとりつかれ病にふせた場合、牙つきの骨で体をなぜたり・枕の下に置いておき、「まじない」によって病を治すのである。 だけど「北山では、タヌキ・キツネ憑きはオオカミの牙を見せるだけで充分でただちに脱落してしまう。」と記述されている。それに「熊野地方において、オオカミを獣類の長としてネズミに咬まれ重患になったら、狼肉を求めて煮喫する・・・・」ともある。
 「狼ーその生態と歴史」(平岩米吉氏著)にも、薬用としての狼の肉は体を温め・五蔵を補益し・胃腸を厚くするので冷え性によく、腰痛や婦人病にもよく効くとあるし。おまけに狼フンまで薬用になったというからその効力は絶大であったのだろう。

 玉置山には「犬吠の檜」というのがあり、「其の皮を削りきて田畑にさしておくと悪獣がこない・・」と伝う。現在、サル・シカ・イノシシの被害にあって、田畑を電気柵やネット・ブリキ板で囲んで獣害による被害から守っているのだが、昔しの人達は「犬吠の檜」の樹皮に頼ったり、村中総出の大土木工事によって「猪垣」を構築し田畑を野獣の被害から守っていた。「犬吠の檜」とはどのようなご神木なのだろう、「イヌ」とあるから玉置山の神使いの狼の事だろうと直感した。神社へとなだらかに続いている参道を登りながら「犬吠の檜」を探していたら、石碑に「犬吠の檜」と書いてあるのを見つけた。いっしょに歩いていた友人に「先に行っと居て写真とってくるわ」、と言って階段をトントンと駆け上がった。

 「犬吠の檜」とは ・・・・「瀞洞夜話」によると「巨大な檜は、十数年前の暴風雨に倒れこの年輪をして伝はしむれば・・・・その年輪の細かいこと驚くの外なし・・・神代杉に勝るとも劣らぬ巨木であった」(昭和28年)参道から左にそれて犬吠の檜の前に立ちつくしたのだが、風雨にさらされ朽ちている古木の株が立ちのこっているだけだった。

 その伝説はあまりにも誇張され過ぎていて実感がわかない、普通ならまったく気にならないのだが「犬吠の檜」この響きにとても興味をそそられたのだった。「大昔熊野灘に発生した大津波がここ玉置山にも及び、村人達が狂気のごとく号泣していたとき、一匹の白犬が波に向かって吠え続けたところなみが引いてしまって災難が静まった。だけど力つきた白犬は息たえて終い、ここに土を掘って埋葬し一本の檜を植えたと伝う。」

 古来より狼は、オイヌ・ヤマイヌとも呼ばれていたので、白犬とは玉置山に棲んでいた白いオオカミで玉置山の神使い者だと思った。朽ちかかっている犬吠の檜の前に小さな二代目の檜が植えられている、撮影してあわってて参道にもどった。
 殿(シンガリ)の人たちが調度登ってくるところで、もう先達は神社に到着したころかなと思いつつ先を急ぐ、極端に樹林の様子が変わって原生林の杜になってきた。このような原生林の森は熊野地方でも、神社の杜やごく一部の山林にしかその姿をとどめていない。ここにはあの有名な屋久島の杉と肩を並べる・・・原始の杉『神代杉』がある。 吹き鳴らされる法螺貝の音が山上から聞こえてくる。 ここにたたずみ原生の樹樹の精霊の息吹を体感していたいのだが、せかされるように神社の境内へと石段を登った。

 社殿で勤行のあと甘酒の接待を受けながら若い神主さんに、「犬吠の檜の犬はオオカミのことですか」と尋ねてみたら、オオカミではなく・・・犬だという。そして左右の狛犬を指して「あの狛犬なんです」・・と答えられた。・・・自分にとって思いもつかない答えだったので次の言葉をなくしてしまった。辿って来た大森山の「大水の森」とは、犬吠の檜に関する地名だと思う。急に冷え込んできて、汗にまみれた肌が冷たい、サポートのバスが待っている駐車場へ向かう山中はうす暗くなっていた。


 五月中旬。 ユンベから雨が降っていたが、玉置山の駐車場に集合したときやっと雨が止んでくれた。午後から天気が良くなると言う予報だったので、着ていたゴアテックスのブルゾンをリュクに仕舞い、アンパンを一個食べてから健康ドリンクを一息に飲んだ。
 午前七時過ぎ、二日間に及ぶ熊野修験の奧駈行が始まった。別名沖見岳と言う玉置山の山頂はモヤに覆われていて熊野灘を望めない。沖見地蔵で勤行の後約60名の参加者を先駆組と遅駆組に分けた、行仙の山小屋に全員泊まれないので先駆組は、行仙の山小屋から3〜4時間先の持経の宿の山小屋に泊まると言う。先駆組に入った健脚の人たちは足早に餓坂(カツエザカ)を下っていった。

 大半の遅駆組・・いやいや行仙泊組は シャクナゲの花を後にして先達に従う、 原生林内に朱色のツツジが咲いているので、前後の方に「あの花、アケボノツツジ ですか・・?」と尋ねたが解らないと言われた。

 ここから、山上ヶ岳(大峰山)へと果てしなく続き大峰山脈の険しい稜線を辿る奧駆道は、十津川と北山川を分ける分水嶺の山々である。この二つの河川が宮井で合流し熊野川となって熊野灘へと流れ出ている。山々には水分(みくまり)の神がいて、生命の源である水を分配しているという。現代ジャグチをひねると水が出てくる。水道水はカルキが入っているからマズイとか、ペットボトルのどこどこのブランドがうんぬんとか言われていて、山岳に棲む水分の神なんて誰も気にすることもない。人々は今一番大切な自然を敬う心を忘れてしまっているようだ。

 奧駈修行は日常生活において、気にもとめなくなってしまっている自然に対する畏怖する気持や、人間が本能として備わっている「五感」を刺激してくれる。  

 左下は十津川の支流である芦廼瀬川(あしのせかわ)で、右下は北山川の支流である葛川の分水嶺になる急な尾根道を下る。瀞洞夜話によると、明治14年・東中の森田氏が玉置山への帰り道、つまり今歩いている奧駈道の花折塚の手前で子犬のような鳴き声を聞き、付近を探してみたらオオカミの巣穴を見つけ中に子オオカミがいた。
 猟師にとって飼い慣らしたオオカミはよくイノシシ・シカを狩るので、親オオカミがいないのを幸いに一匹もらって、花折塚から少し先にある東中まで飛んで逃げ帰った。夜になると親オオカミが子供を取り返しにこないかと常に心配しながら飼っていたが、近所のシシイヌは子供のオオカミを恐れこの家に近づかなかったという。このオオカミは後に新宮の人に買われていったと伝えられている。

 花折塚で休憩した後、東中の地下を右下に見て如意宝珠岳を経て香精山(1121m)の山頂に立つと、東より前方に笠捨山(1352m)が間近に見えて来た。その笠捨山の方から法螺貝の音がかすかに風に乗って聞こえてくる、「先駆組はもう笠捨山の手前で勤行している」。こちらの行仙泊組はゆったり進んでいるのに、もう2時間以上も先を行っている。

 左下の複雑に入り組んだ奧深い白谷には「狼返しの滝」と言う滝があり、その昔山中には猪・鹿の喰い残された屍が見受けられたと伝う。東方・右側の北山川ぞいの立合山(735m)〜西ノ峯(1123m)の稜線の中間点に「狼のタワ」がありともに容易に人を寄せ付けないところである。タワと言うところは、山頂と山頂のくぼんだところをさし大峰奧駈道には「金剛のタワ」・「舟のタワ」・「一のタワ」の3カ所がある。

 四阿の宿から直角に右折してから地蔵岳・槍ヶ岳の険しい岩場の尾根道になり、切り立った岩壁の鎖を頼りによじ登りそして降りる。葛川の辻から急な上り坂になり、ほとんど植林地の中を駆けて来たのだがすばらしい天然林に変わる。道筋に白いツツジの花が散り落ちている、その木は松の木によく似た樹皮をしている、これがゴヨウツツジ(シロヤシオ)だと教えてもらったのだがもう枝には花はついていなかった。「六根清浄」・・「サンゲ」「サンゲ」掛け念仏をかけながら休みなく登りつめる。一人で登っていたらたぶん何度も休んでいただろう。

 笠捨山(1157m)からの眺望はすばらしかった、朝出発した玉置山が墨絵のようになって遙か遠くに見える、あんな所からよく歩いてきたものだ。人間の歩く力強さは想像以上に偉大である。口熊野の海岸部・古座に住んでいる自分にとって、ここからの眺めは、幾重にも重る熊野三千六百峰を裏側から見渡しているような妙な気分になる。西の方が玉置山・その奧に果無山脈、南は那智山系、東は熊野市の山々、北には釈迦ヶ岳と360度見渡せる。 初めて見る景色なのに頭のなかに熊野の地図が自然と浮かび、あそこは多分赤木城の辺だろう、通り峠はあそこかな・・・見当がつけられる。
 法螺貝の音とともに出発して、行仙の山小屋に到着したのは夕方5時半頃だった。ボランテイアの方々が運び上げてくれた弁当をいただいた後、毛布2枚をかさねミノムシ状態にしたとたんアッというまに寝てしまった。

 翌朝午前四時に起床して、五時に前鬼へむけて出発した、右下に広がる下北山村の地下は雲海に覆われていて見えない。熊野を代表する偉大な文化人である西村いさく氏は、たしかここの上桑原の人だったなあ・・・と思いつつ行仙岳(1226m)へと登っていく。

 上桑原の神林氏宅の伝承によると、今から300年前の江戸時代、先祖のヤジロウが狼の巣穴から狼の子供をもらってきて、犬のように飼い慣らし山中に入って鹿・猪を狩っていた。
 狼は獲物をよく捕り地下では名人猟師だったという、山小屋に泊まりヨナゲのアユ漁にいったときだった、休んでいてふと眼をさますと狼が谷に浸かって体を濡らし、たき火の側に来て体を震わせたき火を消そうとしている・・・・。野生のケモノや老いた猟犬はどんなに飼い慣らしていてもある時期がくると、野生に帰り主人を喰い殺そうとするモノだと言うことをウスウス感じていたので・・・これはと思い・・ビクに手ぬぐいを掛けて・・着物を脱ぎ寝型に作ってから梁に上り火縄銃を構えていた。 濡らした体をたき火の側でふるい、消えた瞬間その寝型にガブッと噛みついたという。撃ち殺したのだが・・・それから地下に悪い病気が流行った。山の神使い者の狼を殺した祟りだと思い、川の側にオオカミ宮(コウトリ宮)を建立し、今日でも祭っているという。

 行仙の宿(1126m)から望める、倶利伽藍岳・転法輪岳はいままで辿って来た山々とはガラット山相が変わり、ブナ等原生林に覆われ道の左右は背丈もあるササが茂り人の進入を拒んでいる・・・。だけど尾根沿いの奧駆道まで檜が植林されている所があった。標高1000mを越す山頂だが植林地内の表土は流れ出て、草一本生えていないこんな状態だと檜すら成長しない、出来ることならこの辺を3分の2ほど切ってしまい天然林に戻るようにして欲しいものである。反対側はクマザサが茂っていて道ばたの隅に、なんと小さなゴヨウツツジの小苗の群落が所々見受けられる。ゴヨウツツジは自分の出番を待っている・・・おもわずシカに食べられるなよと・・声を掛けた。

 平治の宿を過ぎたところから大きく山を越えた、もうすぐ先駆組が待っている持経の宿だ。修験の山は標高とか山景によって樹木の種類がガラット変わる、この辺はツガかモミのような針葉樹が目立ち巨木の原始林状態になっている、幹周り5mを越すナラの巨木の下を下っていくと先駆組に出合った。ここまでちょうど四時間かかっていた。

 持経の千年檜の側に建立されたばかりの、不動明王堂にて勤行。千年檜と名付けられているだけあって、この巨木の檜は日本一じゃないかと思ってしまう。ひょっとすると玉置山の「犬吠の檜」もこのような巨木の檜だったのだろうか・・・?。 険しい登り道前の人の靴しか見えない、その人が踏み込んだ同じ所に足をかけただひたすら進む、「六根清浄」・・・「サンゲ・サンゲ」。急な下りの岩場もきつい、だんだん膝の踏ん張りが効かなくなって普通に歩けなくなってしまっていた。

 証誠無漏岳・すばらし名前の山である、奧駈修行を実践しようと試みている煩悩だらけの自分だが、何か一つでも無漏になりたいものである。京都・関東の各地から遠く険しい熊野古道を辺路行して 熊野三山の聖地に入るということは、無漏の世界へ入るということなのだと・・・本でよんだことがある。いま、まさに 大峰奧駈 修行にて「それを」体感している真っ最中なのだが・・・・?。

 直径20〜30cmもある巨木のシャクナゲの樹幹も踏み越え、涅槃岳(1376m)・地蔵岳(1464m)になると、芝生のような笹原の疎林が続くようになった。どんよりとモヤっているが、西よりに原生林の稜線がときおり望める。あの山頂の尾根筋が去年大峰山へと山林トソウした奧駈けの始まりである、釈迦ヶ岳への登山道だと教えてもらった。
 地図の上に熊・カモシカと書かれているが、オオカミとは書かれていない。こんなに原生林に覆われている一帯ならオオカミのワンパック・つまり5〜10匹ぐらいなら、シカ・カモシカを補食し十分棲息出来るだろうと考えながら進む。絶滅してしまった日本オオカミの代わりに中国のオオカミを輸入して放獣する・・・?。ともあれ大峰山脈にはオオカミが棲息していて欲しい山系である。
 食物連鎖の頂点にいたオオカミがいなくなってしまって、自然界のバランスが崩れサル・シカ・イノシシが増えて農家の人たちとトラブルを起こしている。皮肉にも昭和30年頃から始まった拡大造林が、シカ・カモシカを増殖させてしまった要因だとnhkテレビの特集で見たことがある。(植林により、草がはえてエサ場が増えたから)。

 白いゴヨウツツジとピンク色のアカヤシオが並んで咲いている、天狗岳(1536m)の山頂に立つと、冷凍庫を開けたような冷たいモヤが、十津川よりから吹きあがってきてゴアテックスのブルゾンを羽織った。


 石楠花岳(1472m)はシャクナゲが真っ盛りで手で花を左右に除けながら、どんどん下っていくと太古の辻に出られた。 健脚の人達は深仙の宿まで登っていったが、膝が痛み一足早く前鬼まで下ることにした。真っ正面に屏風のようにそびえ立つ大絶壁の大日岳、その山頂には大日如来様が祭られていて、そのご真言は「オンアビラウンケンソワカ」だという。
 千葉氏の著によれば、九州地方で狩猟者が殺生した場合「オンアビラウンケンソワカ」と唱えると言う、修験者が殺生した動物霊を済度するためのお払いの呪文を民衆に広めたのだろうと記述されている。

 荒れたナビキ道を金剛杖を頼りに下った、2時間かかって前鬼の宿に到着した時午後六時だった。約40年前、「山の宗教・修験道」の著者である五来重先生が、吉野から前鬼への逆峯の大峰奧駈に参加して、其の本にこう記述されている。
 「弥山も随分狼が多かったと見えて、頂上から2km下の河原が狼平と呼ばれている。大峰には御犬信仰はないようだが、この神秘的な猛獣の存在が深山を不可思議な別世界と思わせたであろう。最近この山での狼の出没が疑いないものになってきたのは、前鬼の森本坊の離山である。勘ぐる人はこの由緒ある坊も山中の孤立生活に耐えきれなくなったので、離山の口実に狼を出したと思うかもしれぬが、私も次の日の前鬼泊りで夜中にイヌとは異質の遠吠えをたしかに聞いた」。


 九月初旬去年と同じように十津川の旭登山口から熊野修験秋峯入りが始まった。去年は台風の接近による荒れた天候だったが・・・今年も荒れていた。
 釈迦ヶ岳(1799m)〜八経ヶ岳(1914m)〜弥山(1819m)〜行者還岳(1546m)〜大普賢岳(1780m)〜三上ヶ岳(1719m)〜吉野・蔵王堂〜そして最終地点の吉野川の柳の宿まで三日間かけて山林トソウするのである。
 高木導師から「擬死再生」について説法があった、「これから峯中に入ると言うことは、体は死んだ事になり山中での厳しい修行の後、下界に下ったら六根が清浄になって生まれ変わるのです・・・」。・・・・心の中で「はいっ」とうなずいた。
 釈迦ヶ岳へと続く稜線の登山道には、東の下北山村側から強風が吹きあがってきてよろけるほどである。六月にカミさんと釈迦ヶ岳〜深山宿へと訪れたとき 、一面に繁茂して白い花をつけていたバイケイソウはすっかり姿を消していて、トリカブトが青紫の花を付け強風にもまれている。繁茂している山草はシカも食べない毒草だけが目に付く。

 釈迦ヶ岳を越してから少し風が止んできた、山の様子が一変して岩場のきりったた馬の背と呼ばれている危険なナビキ道になり、一歩一歩注意して歩く。桜の木に似たダケカンバがみうけられるようになった。
熊野と吉野に別れる「両部分け」を過ぎ、もう弥山までどこにも避難できる所がないので歩き通さなければならない。
西側に広がる十津川村はモヤに包まれていてなにも見渡せない。
 日本国内に日本狼の剥製は三体しか現存していないという、平岩米吉氏の著によると東京・科学博物館の明治初年・福島産のオスと、東京大学の明治十四年・岩手産、それに和歌山大学の明治三十年代の十津川産だけだと書かれている。 この山中で修験者達は狼にであっただろうか、殿のひとは修験者達の修行を安全に見守ってくれる送り狼を見たのかな、 修験者達は狼の根付けを身につけていたのだろうか・・・?。

 十津川村教育委員会の資料によると、狼の根付けは三体あると書かれているが、今は役場にお勤めの森氏宅にあるのが確認されているだけだという。十津川村には玉置山を中心として狼にまつわる話しが沢山ある、ふとおもった・・・それぞれの地下の狼には名前がついていなかったのかな・・・?というのも紀州藩直営の古座鯨方が勢力を誇っていた、古座の各地下には名前の付けられていたタヌキがいたからである。真谷の「お松」・中の谷の信座衛門」・動鳴気の「八郎兵衛」たちである、・・・この三匹のタヌキはひとを化かしていたという。

 狼は山の神使い者だったからそのような事はなかったのだろう。しかし一般的に「オオカミになる」・「一匹オオカミ」・・・等、オオカミと言う言葉の使われ方は悪い表現である。
 明治になって急速な西欧文化の流入とともにオオカミに対するイメージが変わってしまった。明治二十年に導入された、グリム兄弟の童話「オオカミと七匹の子ヒツジ」が教科書に取り入れられてから決定的に悪獣になってしまったようだ・・・、ヨーロッパではヒツジを喰うオオカミは悪魔の使いとして嫌われていたからである。日本では山の神の使い者である神獣だったのに・・・。
 人間を恐れ、山中で人を安全におくってくれるという「送り狼」が人を喰ってしまう恐ろしいケモノになり、人間をエサとして喰ってしまう熊が、かわいい動物・「ベアというヌイグルミ」になっている。十津川の村人はオオカミを山の獣王として畏怖していて、襲われたという話しは一つもないという。

 トウヒ・シラベの針葉樹のコケむした樹林帯をただひたすら歩き続けていたら、突然近畿の最高峰である八経ヶ岳(1914m)の山頂に立つことが出来た、気が付かない内にどんどん標高を上げていたのだった、ここから弥山の山小屋までもう一息である。

 この辺一帯に繁茂していたオオヤマレンゲは、絶滅一歩手前で人間に救われた。山中を鋼材のフェンスで囲み、シカの食害から守っている、このような原始林をフェンスで囲んでいる事じたい山中異界そのものだが、大切な一つの種をこうしなければ守れない。
 オオカミがいなくなってイヌワシが食物連鎖の頂点にたっているが、イヌワシは子ジカを狩ることが出来ても親シカを補食出来ない。ここ大峰山脈でも自然界のバランスが保たれなくなってしまているし、注意を払っていないと大台ヶ原のようになってしまうんじゃないかと心配になる。トウヒ・シラベ が風倒などしてしまったあと、そこに育つ小苗がシカの大好物になってしまい、倒木更新が出来なくなるんじゃないかと気になってしまう、途中トウヒの幼木の幹が食害されているのを眼にしていたからである 。悪天候の中夕方五時過ぎ無事弥山の山小屋に辿りつくことができた。

 翌朝六時半今日の目的地である、山上ヶ岳(大峰山寺)を目指して出峰した。熊野から来た役の行者が、あまりにも険しい巖峰に出合い還ったと伝わる行者還岳まで、なだらかなブナ・カエデの原生林が続いていて歩きやすいのだが、行者還岳からは険しくなる 。このへんから天気まで悪くなってきた、右よりの東側に大台ヶ原が遠望できるのだが全く見えない。

 もうかれこれ25年も大台ヶ原に行っていない、40数年まえ高校の部活で行ったのが最初だった。だがテレビ・・等などの報道によれば、針葉樹はシカの食害にあって立ち枯れし、シットリとコケむした林床がなくなっていると聞く。中国産のオオカミを大台ヶ原に放獣しよう、・・山頂の100haを鋼材のネットで囲みシカの進入を防ぐ、・・猟師の方々にシカを100匹ほど撃ち殺してもらい数を減らす、・・とんでもない針葉樹の立ち枯れは、人間による環境破壊が原因で酸性雨のせいだ。入山する人々の車の排気ガスが一番悪い、・・・と物議をかもしている。

 このような事になるとは、大台教会を開祖した古川嵩行者は想像もしなかっただろう。古川行者の伝承によると、一人で大台の山中で修行中・・狼と共にくらしていたと言う。そんな話しは行者の権威付けの為に狼を利用したのかと考えたりしてみたが、実際この伝承はありえない話しではないんじゃないかと思ってしまう。
 というのも、北極オオカミの生態を研究していた人が、観察を続けているうちにオオカミの方から、 好奇心をもって近づきオオカミの仲間に入ることができた。・・・dvd「幻の白いオオカミ」として映像に記録されていてテレビでも放映されたことがある。
 人間を知らないオオカミが、危害を加えない人に馴れていっしょに山で暮らすことが出来る・・・。そんなことがありえるんじゃないかとかってに想像してみたのだが。

 去年は台風一過で2日目はいい天気だった、国見岳(1655m)から遙か遠くに望める釈迦ヶ岳を、指し示されたとき歩いてここまで来たのが信じられなく、熊野からの道のりの厳しさを思い起こした。
 北方に山上ヶ岳(1719m)・その手前に大普賢岳(1779m)・小普賢岳の岩壁が障壁のように立ちふさがり行くてを拒んでいる 今からその山頂を越えていくのだという。・・・西方の稲村ヶ岳(1725m)が山上ヶ岳へと稜線を連ねている、絶壁の山頂に作られている木の橋から見渡すと、真下は目もくらむ原生林の深い渓谷が望める。ムササビになれたら、稲村ヶ岳へひとっ飛びに飛んでいけそうだ。

 大普賢岳〜山上ヶ岳〜稲村ヶ岳とユー字型に稜線が続いていて、3つの名峰を源として真下には神童子谷が西の方へと流れている、鬱蒼とした原生林に覆われているこの渓谷が熊野川の源流の一つだなんて想像すらできない。熊野那智山〜本宮から北山川・十津川の分水嶺になっている大峰山系のナビキ道を辿って来て水に対する思いを一変させてくれた。、昔の人々が山に棲んでいる水分(みくまり)の神を信じていて・・・春になると里に下りてきて田・畑を潤してくれる・・・命の源である水を生んでくれる山岳を畏怖し、「自然崇拝」していたということが少し実感できるようになってきた。

 真下を流れる熊野川・源流域の神童子谷には、不思議に狼に関する地名がある。狼横手・狼尾・犬取り尾・犬ガエリ・犬取滝。・・・みんな「この橋、気持ち悪いな・・・」とくちぐちに言いながら足早に渡った。

 今年は稲村ヶ岳の方から真っ黒い雲が迫り雷が聞こえていて、大普賢岳の山頂に着いたとき雷の大音響とともに雨が降り出してくる。 山中での雷は一番恐ろしいので急ぎ足で原生林内へと駆け込んだ。女人結界門をくぐり足早にナビキ道を駆けていったが、山上ヶ岳の大峰山寺に着いた時夕方五時を過ぎていた。大峰山寺はすでに閉山しており早朝勤行する事になって、桜本坊の宿坊に入った。

 三日目の早朝大峰山寺で勤行の後、本年の新客が西の覗で捨身行の実践を始める。天気が良く雲海が広がっていて山々の稜線を浮き出している、まるで生きた竜のように雲が稜線を駆け上り、瞬時に景色を変えてしまう。新客の引き締まった顔をしりめに、経験者はゲラゲラ笑ってはやし立てる。背中に熊野からの朝日を受けて雲海の激しい動きを見続けた。
「ありがたや西の覗にザンゲして・阿弥陀の浄土に入るぞうれしき」、全員唱和の後雲海の中に入っていって吉野へと下っていった。


 熊野の各地にある狼に関する地名の山・谷・滝・タワなどは、そこに狼が棲息していた証である。魔よけとして珍重され、各地の家に保存されている「狼の牙の根付け」、各地に残る伝説・伝承、今日これらの狼に関する事柄が人々の記憶から消えてしまおうとしている。
 北海道に棲息していたエゾオオカミ(シベリア系・オオカミ)は、明治初期にエゾシカ(缶詰にしてヨーロッパへ輸出していた)や放牧しているウマを喰うとして、毒薬を肉にしみ込ませたり・賞金を懸けてエゾオオカミを狩ったため、学名が「オオカミの王」と名付けられていたエゾオオカミは、人間のエゴによって明治二十年を境に絶滅してしまった。

 本土に棲息していたエゾオオカミより小型だったニホンオオカミは、山の神の使い者として畏怖されていてその頭骨・牙付きのアゴ骨が、珍重されていたことをみると山間部でワナや銃によってオオカミを狩り、頭骨を根付けに細工する職人がいた。その珍品はかなりの高額で売買されていたと想像できる。

 平岩先生の著によれば1900年頃オオカミに伝染病が蔓延して 、木の本・上北山・十津川の山村の人達が病気のためうろうろするオオカミを目撃したと記述されている。
 それに環境の変化である、明治中頃からの急速な山林開発によって、オオカミの棲息地を奪ってしまったのである。・・・明治38年(1905年)1月鷲家口で捕られたニホンオオカミを最後に、神隠しにあったようにニホンオオカミは姿を消してしまった。・・・・・・・・

 「熊野の日本狼」について確実な棲息を語るとき、一番重要なのが「大塔の狼」だと考えている。紀伊半島の南部に位置する大塔山(1122m)は、山頂部にブナ・カエデ・アケボノツツジ・ゴヨウツツジなどの落葉樹を始め、アカガシ・ツバキなどの照葉樹林が混ざって生えていて、ここならでわの林相が特徴である。 五月初旬にピンク色の花を一面に咲かせるアケボノツツジが山の代表木になっている。

 東から北の方面にかけて、那智山系・大森山・玉置山・笠捨山・行仙岳・釈迦ヶ岳・仏性ヶ岳など大峰奧駈道の山々が遠望できて、・・南には太平洋が望めるるすばらし山である。
 その西側の麓にあたる大塔村にはこじんまり した歴史資料館があり、そこには「大塔の狼の上アゴと下アゴ が完全に揃っている頭骨の一部」が展示されている 。 旧家の中瀬家より寄贈されたと伺った。この「大塔の狼」こそ・・・「熊野の日本狼」そのものである、。 いったいいつ頃狩られた狼なのかわからないが 、あまりにも美しく・・・新しさを感じて、ごく最近まで棲息していたんじゃないかと想像してしまうほどである。

 上アゴの牙の長さは2.8cm・牙の根本の直径は1.2cm・牙と牙の幅は4.5cm・下アゴの牙の長さは2.5cm・牙の根本は直径1.2cm ・牙と牙の幅は4.1cm もある・・・門歯から8cmのところで無造作に切断されているが、いままで見てきた根付けと違ってまったく加工されていない。手に取って上アゴの牙でそっと頭をなぜてみた。
 大塔村の洞口久善氏によれば、地下の人たちは山の主である狼を「大将」と呼んで敬っていたという。りっぱな鑑定証があり、所見として「右の標本は日本産オオカミ成獣(おそらくオス)の頭骨の一部であると判定します、この動物は和歌山大学教育学部所蔵の日本産オオカミ標本と同種のものと思われる」と書かれ、京都大学理学部動物学教室・助教授田隅本生氏と古代ニホンイヌ研究・岩田榮之氏の署名がしたためられている。日付は平成元年三月十日になっていた。

 ショーケースの中にもう一つ「狼の牙」と書かれている木箱に、「熊野の日本狼」より一回り小さい下アゴの根付けもある。漆が塗られ中央に小さな穴があけられているが、本宮の戎氏宅の根付けに取り付けられていた細工されている金具は付いていなかった。
 何気なく木のフタ裏を見てみると、「狼の牙は、平岩米吉先生より実物であることが証明された・s57・3・1」と裏書きされている。平岩先生は、この山深い熊野まで狼の調査に来られていたのかと思い・・・感慨深いものがありました。自分にとって先生の著書である「狼ーその生態と歴史」・「犬と狼」は日本狼について知識をつけていただいた教科書だからである。

 岩田先生から大塔村役場へ送られてきた、お手紙のコピーを洞口氏より送っていただいた。それによると、十津川で明治30年代に捕れた和歌山大学の日本狼の頭骨に熊野の日本狼の、上・下のアゴ骨を別々に咬合させたところ、あまりにもピッタリ咬合したため同じ日本狼と断定したと書かれていて、熊野の日本狼の体格は和歌山大学の剥製と同じ大きさであろうとも記述されている。

 いったい「熊野の日本狼」はいつ頃・どの様にして捕らえられたのだろう、その牙を見つづけていると「大将」と呼ばれ「山の主」として畏怖されていたことが、本当に実感できる。明治38年1月鷲家口での最後の日本狼より・・・古いのか・・・新しいのか・・・・わからないという。

 もし明治の末とか、大正だとか言う伝承さえ残っていれば・・・・・見つめていると100年以上まえに捕らえられただなんて・・・思えない。それよりごく近年・捕らえられたようにしか 思えてならない。ひょっとすると、「熊野の日本狼」こそ・・・最後の日本オオカミなのかもしれない ・・・?と考えた。 ・・・・ 今でも熊野・大峰の原始林の森内から幻の日本狼は修験者達を見守っているかもしれない。

 大塔山の山頂から、西方に向けてオオカミ犬「バルト」から教わった遠吠えを一声してみた。 「ウオオッオ〜〜〜〜」。

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