大辺路の暮らし
大辺路を辿った巡礼行者
上野 一夫

 2009年の11月4日、「紀伊山地の霊場と参詣道・世界遺産登録5周年記念国際フォーラムIN熊野本宮」が、本宮の「世界遺産熊野本宮館」で催された。グスタボ・アロウズ(アメリカ)イコモス会長の「世界遺産の未来」という講演から始まり、マリア・ローザ(スペイン)イコモス文化の道委員会会長の「紀伊山地の霊場参詣道の重要性」など多彩なイコモス関係者の世界遺産に関する講演・パネルデイスカッションが行われた。

 仁坂吉伸和歌山県知事は挨拶の中で、世界遺産登録指定に際して推薦しそこねた熊野古道がある。串本町の大辺路、田辺市の潮見峠、紀伊路等であると具体的に示し、参詣道として繋げていくため世界遺産の追加指定を目指していくと発言された。 大辺路刈り開き隊の隊員にとって、思ってもいなかった知事の発言に驚き、それは喜び、期待感に変わった。  

 シダや木々に覆われ歩くことができなかった古道、分からなくなっていた古道ルートの確認、古道に生い茂る夏草の草刈り、古道側に不法投棄されていた60dものゴミ処理、みんなで整備・作業をもくもくとこなし、気持ちのいい汗をかいて楽しんでいる。 2010年度からは刈り開いてきた熊野古道大辺路が世界遺産候補地になる。これからの整備作業は大辺路刈り開き隊が勝手に行うのではなく、世界遺産センターと相談し協調していくことになった。

 世界遺産登録前当時の記憶によれば、大辺路の参詣道としての存在感は中辺路に比べれば「ただの生活道」だという扱いで非常に低かった。 平安時代、貴族達が熊野三山を目指した御幸道も、関東から伊勢神宮に参拝し、熊野速玉大社そして那智山大社、西国三十三観音一番札所・如意輪堂(青岸渡寺)と巡拝し、本宮大社そして二番札所の紀三井寺を目指したのも中辺路を通行していたからだ。
姫の道標地蔵 (右)わかやま道(左)みさき道
 妙法山・阿弥陀寺の嘉永年間建立された石柱には「みぎ ほんぐう・きみいでら」と刻まれ中辺路を利用するように印されていることで分かる。伊勢路では、ひたすら「なちみち」と印された道標を頼りに那智山に来られたが、ここから巡礼者は「きみいでらみち」と印された道標を頼りに二番札所を目指して行くことになる。

 そのような道路事情かどうかは分からないが、大辺路の各所の道標は「わかやまみち」と印され、「きみいでらみち」と印された道標は見あたらない。研究者の発表でも大辺路には茶店や宿泊所もないので、巡礼者達が通行しない「ただの生活道」だとされていたのだ。

 しかし、草堂寺・無量寺・成就寺などに名画を遺してくれた芦雪を筆頭に、文人と言われる人たちが庄屋の食客として大辺路を辿っただけの道だから、「文人墨客の道」として富田坂・仏坂・長井坂も参詣道として推挙され、世界遺産に指定されたという経緯がある。
 だが、串本町・有田の大辺路には熊野三山を飛び越し伊勢神宮を目指す「ひだり いせみち」と印された石柱道標があり、上田原の八郎峠越えには「ひだり・なちみち」と印された道標地蔵があるので、「文人墨客の道」は当たり前に参詣道であって、熊野三山そして伊勢神宮を目指す道になってくる。

 近代の道路網の整備によって忘れられていた古の熊野古道、2004年世界遺産に指定されて、参詣道として蘇った古道を人々は辿る。歩行によって街道を往来していた時から、明治の近代化によって荷車が通行出来る道、そして自動車が走る道、さらに高速道路へと道は変遷していった。本題の大辺路を辿った巡礼行者の項の前に大辺路の道路事情について触れてみた。


 明治39年、周参見から串本の間に荷車が通れる道路の建設が始まり、大正2年、幅1間の荷車道が完成、すでに開通していた古座〜新宮間と繋がり、県の念願だった田辺〜新宮間の新熊野大辺路街道が完成した。この年には新宮から勝浦港まで材木を運ぶ汽車が開通し、勝浦港から船積みされた材木は東京〜大阪へと運搬されていた。

 当時、南紀の人々はもっぱら汽船に乗って大阪へと移動し、自動車による交通網の発達にはまだまだ時間がかかることになる。
 串本地域では大正9年9月、小型自動車一台の運行だったが串本自動車組合が発足し、西向〜串本間で自動車による交通が始まった。


  昭和15年8月8日、紀勢西線(和歌山〜串本)、紀勢中線(串本〜新宮)、新宮〜木本(熊野市)が結ばれ和歌山から木本間が開通した。昭和9年に開通していた紀勢東線(亀山市〜尾鷲市)と木本間が昭和34年にやっと開通して、悲願だった紀勢本線は一本に繋がった。当時、私は古座小学校の4年生で、古座駅で祝賀列車に小旗を振った記憶がある。
 紀勢本線の全線開通したこの頃から熊野地方にプロパンガスが普及し、薪炭からプロパンガスへとエネルギー革命が始まり、テレビ・軽四自動車の普及は人々の暮らしを変えていった。
 温泉地観光客の増加、林業の活況、物流の安定化、東京へ直通の夜行列車の運行などで首都とも直結した。しかし、皮肉なことに文化的発展や紀勢本線の開通によって、人々は線路を「道」として利用したので、古からの峠道は忘れられていった。現在、「線路が道」だなんて言ったて信じられないが、昭和30年代まで普通に紀勢線の古座川鉄橋を渡っている人をよく見かけた。汽車は鉄橋に差し掛かると警笛を鳴らし、鉄橋を渡っている人は慌てることなく避難スペースへと避難し汽車を交わしていた。  
                 
 今から45年(1965年)まえの高校1年生の冬、出来たばかりの串本自動車教習所で軽四輪の免許を取ると、すぐに古座から新宮市へと走った。新宮市内の国道は当時商家が軒を連ねる一車線で、この地方に唯一の信号機が大橋の手前の交差点にあり、本物の信号機を体験するためだった。たしか次に信号機が設置されていたのは三重県の松阪市で、反対側は田辺の商店街までなかったと記憶している。

 当時の旧国道42号線は、「酷道死号線」(コクドウシニゴウセン)と揶揄される程ひどく、夜になると車の往来も少なく、どこどこの峠では幽霊がでると噂される酷道だった。今では信じられないけど、見老津から周参見の間は昼間でも車の往来が少なく、ヤマドリやノネズミが横切っていくのをよく目撃する寂しい酷道だった。
  現在の山奥の林道の様な穴ぼこだらけのガタガタ道を砂煙を巻き上げ走った。たまに車どうしが対面した場合、どちらかが少し広い所へバックして譲り合って交差するのだが、なかには向かい合ったまま、どちらがバックするかでケンカを始める運転手もいた。所々に当時の狭い酷道が残っているので、走ってみるとよく分かる。古座から白浜まで3時間以上もかかった。

  熊野古道は現代版の国道42号線や311号線 と同じ官道になるわけだけど、古道沿いには、古の時代から人々が辿って行きやすいようにと願う思いやりの息使いが漂っている。寂しい峠道には道行く人々の無事を願ったお地蔵さんが建立されているし、分かれ道にさしかかるとお地蔵さんの左右には「右・わかやま道、左・みさき道」などと刻まれた道標地蔵や石柱があちこちにある。これらの石仏は官にあたる紀州藩が建立したのではなく、信仰心のある地域の有力者や一介の町人達が行路人の旅の安全を願って建立されたのだった。
世界遺産に登録された頃、大辺路は「文人墨客の道」だと認定されたことに常に疑問を感じ、参詣道としての大辺路を普通に理解できるように、「大辺路を辿った巡礼行者 」という題にこだわって、巡礼行者・暮らしていた人々との関わりについて考察してみた。

古座街道を辿った天田愚庵(京都東山 鐵眼)

 明治26年10月21日、高名な歌僧・天田愚庵(愚庵全集・巡禮日記)が熊野三山を巡り、大辺路を辿って古座に着いた。「清水次郎長の養子だった天田愚庵」と言ったほうがインパクトがあって興味が湧く。

 9月20日、彼岸の初日に愚庵は西国三十三所札所巡拝を心願し京都の庵を出発、近江をえて伊勢神宮に参拝、熊野古道伊勢路を南下し、古道の八鬼山を越えず、新道の矢の川峠(やのことうげ)を越えて大又をへて木本へ出ている。ここから、七里が浜を辿って新宮へ向かわず有馬〜横垣峠〜尾呂志〜風伝峠を越え、玉置口から小舟に乗って瀞狭に入り山水の趣を楽しんでいる。
 湯峰に12日間逗留する間、本宮大社に参詣し二十二年の大洪水について「十二社の内、八社は押し流れ、残れる四社を故の地より三町あまり北の岡に遷し参らせ・・この洪水は千古未聞の大水にて・・川上に山崩れあり、堰き止められたる水の一度に破れて押し来れる・・古来神庫に秘めありし寶物、古記類類、残らず流れ失せたりと伝ふ・・」と記している。
 本宮から新宮へ舟路九里八町、「流れ急なり、此川二十二年の洪水に濁りて、いまだ澄み返らず・・」。もう4年も経っているのに、洪水の被害がいかに甚大だったか分かる。速玉大社・神倉神社・除福の墓・飛鳥神社に詣で、城山にまで登って風景を楽しんでいるから、愚庵の旺盛な好奇心と行動力には驚く。

 那智大社に詣で、一番の目的である西国第一番札所の那智山普照殿(如意輪観音様)にて巡礼の打ち始めをする。そして、明治初期の廃仏希釈によって如意輪堂が存亡の憂き目にあったこと、青岸渡寺と名を替えたが太閤秀吉公再建の頃となに一つ変わらない信仰を厚めていることを綴り。「・・紀伊、播磨、丹波、丹後、近江、美濃などなるを、西国と伝ふは、鎌倉時代の、関東にて言ひ習はしたる言葉なりとぞ・・」西国と呼ばれる由来を説いている。表には「奉納・西国三十三所・為父母菩提」、裏には「南無大慈大悲観世音菩薩」としたためた三十三枚の納経木札の最初の一枚を打って納経する。
 那智山でも、愚庵はこまめに行動する。大滝の滝壺を覗き、見上げては「しぶき、雨のごとく・・」、山へ登り二の滝、三の滝を巡って、大滝の落ち口から下界を見下ろしている。妙法山の阿弥陀寺に詣でてから井関へ下って、天満〜勝浦〜市屋〜下里と大辺路を辿り浦神で宿をとって下田原を経て古座に来たのだった。

 愚庵は古座峡の一枚岩と牡丹岩を見たかったので、海岸沿いの大辺路を辿らず古座川を遡り佐本越しで、田辺へ向かう古座街道を辿って、西国2番札所の紀三井寺を目指した。


天田愚庵が見た絶景

  現在、古座街道と言えば古座から高池〜明神〜三尾川〜佐田〜添野川〜佐本〜周参見間だが、本来の古座街道は古座〜高池〜明神〜三尾川〜長追〜佐本〜法師峠〜大附〜日置川〜宇津木坂〜朝来〜田辺間だった。寛政年間に記された熊野巡覧記(玉川玄龍著)の古座川の項に「此川奥よりも田辺に出る道あり」と記されているから、旅人は目的地によって古座街道・大辺路街道を使い分けていたようだ。

 2009年、朝日新聞社の「司馬遼太郎街道をゆく」のシリーズで、訪れて見たい街道のナンバーワンに古座街道(八・熊野古座街道・朝日新聞社)が選ばれている。
 愚庵が辿って行った明治期の古座街道の道路事情について、6年ほど前、文書館で森脇義夫氏の講演会が催されたので聴講していた(和歌山県立・文書館だより・第15号平成16年9月・森脇義夫著)。

 それは、明治20年県議会において、中辺路・大辺路を押しのけ古座街道 を田辺から新宮への熊野本街道として改修すると可決されたのだが、明治22年8月の大水害の災害復旧工事や日清戦争・日露戦争の勃発などによって、古座街道の道路改修工事に着手されなかったと解説された。
 しかし、政治事情の変化があったようで、日露戦争終了後の明治38年11月の県議会において、古座街道の改修は破棄され、大辺路を熊野本街道として改修すると議決された。

 明治39年から串本〜周参見間で新道建設が始まり、大正2年、現在の国道42号線の基本路線にあたる幅一間の荷車道が完成した。それとともに、古座街道は周参見〜佐本〜佐田〜明神〜古座に変更され、古座〜佐本〜法師峠〜大附〜宇津木坂〜朝来だった古座街道は忘れられてしまった。
 しかし、佐本地域の栗垣内と大附を結ぶ法師峠(ほうじ峠)には荷車道を通そうとした明治の人々の心意気と苦労が「明治の新道」として遺っている。両地域から着工された荷車道はあともう少しで開通出来そうだったのに、今は築かれた荷車道の石垣が遺跡の様に残るだけだ。法師峠は古座川と日置川を分ける分水嶺にあたる。峠のお地蔵さんは、田辺から物売りの商人・潮御崎神社への参拝者、嫁ぐ娘、婚礼道具を背負って越える人、古座から田辺へ向かう人達の往来の無事を見守ってきた。

 司馬遼太郎氏の街道シリーズで有名になった古座街道しか知らなかったので、森脇氏の発表に驚き、古座街道の変遷を初めて知った。地図を見ると、海沿いの大辺路と山間部の古座街道は平行して走っている。新宮への熊野街道としては古座街道の方が近道だったが標高500bの宇津木坂がネックになったようだ。両街道を結ぶ各村落間に幾筋もの山道が通じている。人々は各地の「灘」と「奥」を繋ぐ近道を利用しながら往来していたことが分かる。

 「順禮日記」によると、 愚庵は古座の裏手の岡に上り大辺路第一番の名所・橋杭岩を遠望したと記しているから、高川原(水軍領主)氏の居城だった古城山に登り、眺めたのだろう。ここに立つと、九龍島・大島・橋杭岩・潮の岬を一望でき、戦国の時代、海上交通を見張る要害の山城だった伝えられていることに納得する。
 古城山への途中には「うらうらと三崎大しまみわたして 橋杭かけて かすむ春かな」(深見寿仙)と詠われた歌碑が建立されている。古座は中世の時代から潮崎荘の中心地で、江戸時代、廻船問屋や船宿が軒を連ね、古座鯨方の本拠・大納屋を中心に古座組・江田組の人たちが300人も捕鯨業に関わり、人々が行きかう繁盛地だった。

 「大辺路の本道は、西に向かいて行くべきを、古座川の上には、月瀬の牡丹岩、相瀬の一枚岩、などいふ名所ありと聞けば川添ひに登りて一覧し、佐本越して田辺に出でんと、北へ向ひて山手に入る」。と記されているから、すでに古座峡の一枚岩は観光地図に印されている名所だったのだ。古座川に添って古座街道を上流へと歩き、月野瀬のぼたん荘の側にある牡丹岩を見物し潤野の円照寺で泊まっている。                             
 よく朝、古座から真砂村行きの16艘の真砂船(まなごふね)が川下より漕ぎ上がってきたので乗船し、川船から目的の一枚岩を見上げ古座峡のすばらしさに驚嘆している。古座街道の特徴は川舟による川運を利用できることで、古座川へ流れ出ている佐本川との出合いの長追村で下船し清源寺に宿泊している。
 長追村の直ぐ上流の真砂村は、真砂船の発着場で、車道が整備されるまでは銀行、登記所、それに芸者の置屋まであった古座奥一番の繁盛地だった。馬目樫・樫の白炭・蜂蜜・椎茸など古座奥の産物は真砂村に集積され、真砂船に積みこまれ古座川を下っていった。     

 23日、「清源寺を立ち出で、西を指して分け入れば、人住むべしとも覚えぬソマ(木こり)の小屋より駈け出で草鞋を供養する者あり。誠に殊勝(しゅしょう)なり」と記している。注目したいのは貧しいながらも、巡礼行者に対して善根をつむ「草鞋のお接待」をした村人が居たことだ。このような行為はなかなか文献に登場しないが、一番注目したい事柄なのだ。     
 この先、佐本村への峠の途中、二筋に分かれたところで、新道を近道と思い将軍谷の炭焼山へ迷いこみ、長追からたった三里の行程を一日費やして栗垣内(くりがいと)に宿泊することになった。「新はりの跡をな踏みそ玉鉾の道はふるきに依るべかりけり」と自分自身に対して戒めの歌を詠んでいる。

巡拝する巡礼者 24日、「寶字峠(法師峠)を越え、大附、小附、城、小川等の村々を過ぎ、宇津木に至る。是より日置川を渡りて峠あり、宇津木峠という・・」川を渡るとすぐに宝蔵庵があって宇津木峠への登り口へと続くのに、道標がなかったのだろう川沿いに2qほど下ってしまい猟師に道を尋ね、新道の三箇峠を越えて庄川(しゃがわ)沿いに下って、生馬より数キロ下流の富田川との出会いの庄川口に出ている。
 庄川口の富田川添いに国道四十二号が走っている。国道を田辺へ向かって少し進んだ郵便橋の手前の林翁寺に投宿し、京を出発して今宵は二度目の満月だと記している。

 25日、古座から田辺までの間で二回も道に迷ったけど、田辺の海蔵寺に宿をとり、10月31日藤代峠を越えて第2番札所の紀三井寺に参詣できた。順番通りに観音札所を訪ね歩き、飛騨路へ向かう磨針峠を越えながら「されど近年は、汽船、鉄道などの便利あれば、此の道往来するものいと希にして、道普請などいふこともなく、年来荒れ果てたる・・・」と記している、明治の文明開化による車道の建設工事は各地で始まっていて、愚庵自身も新しく切り開かれた明治の新道を辿ったり、このように利用されなくなった古道も辿り巡禮の旅を続けてきたのだった。

 12月17日、第三十三番谷汲山華厳寺に着いた。「直ぐ納経し、故実(古からのしきたり)なれば笈摺も共にぬぎ納め、三十三番の札、首尾よく打ちて、内陣に入り通夜す 。」
 愚庵は巡禮にあたって、自分自身の供養だけじゃなく衆生結縁を願い一人ひとりから三銭三厘を勧進したところ、千五百五十人もの善男・善女の賛同があった。だから、笈摺に愚庵は「同行・千五百五十人」と記し、勧進した人々一人ひとりの祈念を背負って諸佛を巡禮した、「西国巡禮日記の序」に「千五百余人の男女は和尚一人の行によりて居ながらに諸ろ諸ろ御佛の大慈悲を蒙る・・」と記され、この記述は現在の暮らしにおいて希薄になってしまった「衆生結縁」という信仰心に気付かせてくれた。
 道端や峠道に建立されているお地蔵さんは、巡礼者達が無事に目的の霊場へ辿っていけるようにと願いを懸けて建立された。巡礼者が手を合わすことによって、建立者と結縁することになり、自身も菩薩行の大慈悲を蒙ることができるのだ。

 12月21日、西国三十三札所を巡拝する巡禮の旅は無事満行となった、「午のさがりに清水の草庵にぞ帰りける。彼岸の入りの日に立ち出て,冬至の今日まで、日を重ねること93日、里程凡そ四百里に余れり苔蒸たる庭に、早梅の七・八輪咲きたるは、主人の帰庵を待つに似たり・・」、「三十余三の御山の御佛に仕まつらく父母のために。衆人のために」。

 古座街道を記した旅日記を読むことが出来たのは愚庵の巡禮日記だけで、「国文学解釈と鑑賞・別冊・熊野その信仰と文学・美術・自然」・「庶民の熊野信仰(近現代)」(山崎泰著)の記述によって愚庵が古座に立ち寄ったことを知ることが出来た。「巡禮日記」は地元の人達ですら忘れてしまっていた古座〜佐本〜田辺間だった古座街道筋での人々の暮らし、人々の往来について考えさせてくれた。

 たとえば佐本の元区長・森下氏の話によると、田辺から那智山へ参詣に向かう場合、古座街道を往来した方が近道だったと話してくれた。又、田辺市の小板橋淳氏は「那智山の参拝をすませ、先を急ぐ巡礼や行者、古座から田辺に向かう商人達は、田辺への最短距離の道として、古座街道(田辺往来)を歩いた。そのコースは古座川町高池で那智からの道(八郎峠越え・なち道)を合わせた後、古座川に沿って遡上し・・法師峠を越えて・・ 宇津木坂を越して・・生馬の鳥淵へ出る道である。」と報告している。
ここで、愚庵が実践した西国三十三番札所巡禮の歩行による菩薩行の、目的、かかった日数 、わら草履の供養・・等を心に留めておいて欲しい。このことはこれから記す西国三十三所巡礼行者を理解する基になるからだ。

 西国三十三札所を始め、四国八十八カ所、板東三十三所、秩父三十四所そして六十六部という廻国行者の巡礼は一般的に知られ、串本町内にも六十六部が建立した「廻国・大乗妙典塔」が何基か見受けられる。
西国三十三札所の巡礼道沿いには「西国三十三度行者」という究極の菩薩行を実践していた行者が巡礼の旅を続けていた。この「度」の意味することは西国三十三札所を三十三回巡拝することなのだ。
西国三十三度行者が大辺路の浦々を辿っていたことを覚えているのは80〜100歳の方達だけで、古座川筋に遺っている菩薩行の実践の証である「西国三十三度供養塔」を解読することによって、大慈大悲を祈念した信仰心、当時の人々の暮らしを理解したいと考えた。


大辺路を辿った近現代の 西国三十三度行者

背負っていた観音さん 西国三十三度行者の存在について、成城大学民俗学研究会調査報告書第十二集(昭和59年度)「和歌山県西牟婁郡串本町田子民俗調査報告書」のP99の「民間宗教者・巡礼」に記録されていた。それには、「オサンドサン・サンドボウズ。戦前、年に一、二度、那智山へ参る途中に、オサンドサンと呼ばれた 仏様を背負った僧が、特定の家に泊まった。」と記している。
 この民俗調査は25年も前のことだが、その時、調査に協力された田子の高尾嘉作氏(昭和2年生まれ)を訪ねオサンドサンについて伺ってみると、「子供の時、背中に仏さんを背負った人が来やったのを覚えたあーるだけやの〜」。 
 近くの下ノ木稔氏(大正8年生まれ)は「 背中に仏さんを背負った人、うちに来たで、 仏壇のある座敷に泊まったで・・」、どのようなことをしていたのか尋ねたけれど、その頃、子供だったので記憶していなかった。

報告書を抜粋してみる。
 「高尾本家にオサンドサンが、年に一回春頃に3人連れでやって来た。三人とも白装束に杖をつき、背中に薬売りの箱くらいの大きさの箱を背負っていた。その箱の中には、小さな位牌が沢山はいっており、高尾家のものもあった。・・・オサンドサンが高尾家に着くと、座敷に背中の荷物をおろし、・・・観音開き扉を開けてお経をあげてくれた。・・・その晩座敷に泊まってもらいご馳走した・・・」

 「石川家にサンドボウズが一年に二回、盆と正月にやって来た。・・・三十三カ所の観音さん(6.7pの大きさ)を入れた大きなお堂を背負って、カミ(和歌山方面)から一番の観音さんのあるシモの那智山へ一里一里歩いていった。・・田子〜田並〜串本〜橋杭〜勝浦を通って一里ごとに泊まりながらまわった。・・・家に誰もいないと、・・勝手に家に入ってカミノマでお堂を開けてそこに寝ころんでいた。・・・翌朝・・弁当やお賽銭を少しもたせた。・・・娘さんがアメリカへいっていたので、娘さんの写真をお堂の中にはさんでもらっていた。戦争が始まってから来なくなった。」

 「平美家のオサンドサンは正月過ぎの水仙の花の咲く頃、仏さんを背負ってやってきた。・・天の橋立のお寺の人が来ていた。・・箱のようなものの中に入っている仏さんにご飯をお供えておあかりをつけて、家の者と一緒に拝んだ。仏さんは金銀塗りのきれいなものだった。一晩泊まって次の日にお小遣いをあげておくりだした。」

 この話者は明治36年生と明治34年生まれの方達で、この年齢の方でしか「お堂を背負ったオサンドサン」のことを詳しく覚えていないようだ。どうやら西国三十三所を三十三度巡拝する行者のことを「オサンドサン」・「サンドボウズ」と呼んでいた。                         
 大辺路を巡って、那智山・青岸渡寺〜紀三井寺〜粉川寺〜と西国三十三札所を繰り返し巡拝し続ける。いったい何年かかったのだろう。一里、一里ごと各地区の決まった家に泊まり、当家の位牌をお堂に預かり先祖供養の代参もかねていた。頂いたお布施は行者の路銀になったのだろう。

 大辺路沿いの知り合いの方々に 、オサンドサンについて知っている方が居ないか尋ね歩いた。大辺路富田坂クラブの代表・脇本敏功氏の親戚の方で白浜町富田にお住まいの栗山実氏(大正四年生95歳)は、「まだ鉄道がなかった時やったの、たしか奈良の人やったで、那智山で年越しするのに家に泊まったの〜」。4〜5人のグループで、脇本さんの家やら近所の大きな家に泊まった。「来たらお布施渡すんや、近所の人らさい銭もってきたで、坊さんの格好して、金張りの位牌ら入っているのを背負っていた。母親はお堂を背負わせてもらい、那智山へ向かうオサンドサンを草堂寺の上の一里松まで送っていった。背負わせてもらうとご利益があるんやと〜。」

栗山 実氏(白浜町富田) 一里塚があった側には、享保四年(1719年)の「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑、文政六年(1823年)三月吉日・常州行方郡玉造村・行者・茂左衛門建立の「奉納大乗妙典日本廻国塔」、それに文政十一年(1828年)・「当村 銀吉」・「日本廻国千人供養等」、と刻まれた石碑が並んで建っている。 「当村 銀吉」とは富田村の銀吉さんのことで、栗山実氏は銀吉さんのご子孫にあたる。栗山氏宅は代々「ギンキ」と言う屋号で呼ばれていて、その由来はご先祖の銀吉さんの名前からだろうと教えてくれた。脇本氏によれば、ご先祖の「ギンキ」さん宅は困っている旅人を無料で泊めていたと言う。 

 「日本廻国千人供養等」とは、全国を廻る六十六部と呼ばれている巡礼行者や西国巡礼者を無料で宿泊させ、千人に及ぶ巡礼者を泊めた記念に建立したのだった。「善根宿」を営んでいたのだ。広辞苑によれば、「漂泊の信徒または行暮れた旅行者を宿泊させる無料施行宿」と記され、「善根」とは広辞典には、「よい結果を受けるもとになる行為」とある。 「ギンキ」家は信仰の篤い家柄だったことがわかる。自身は巡礼に行けないけど、その代わりに巡礼者達に無料の宿を提供し接待する善根を積んでいた。                                          
 熊野修験の導師であり西国一番札所の那智山・青岸渡寺の副住職・高木亮英氏に「オサンドサン」について尋ねた。「オサンドサンは年越しのお勤めの為に、青岸渡寺に参籠したのし」。オサンドサンは大辺路を歩いて那智山に来たのですか、「もうのう、汽車で来やったのし、那智駅まで来て、バスに乗って那智山まで来たの」。
 オサンドサンはいつ頃まで来ていたのですか、「そうやのし、戦後は参籠するオサンドサンは少なくなっての、日高の行者さんでの、上田さんいう方がオセタを背負って参籠してたで、昭和56年の参籠が最後やった。そのころ上田さんはの軽トラックに乗ってきやったで」
 
西国霊場三十三観音御背板 青岸渡寺副住職 高木亮英導師 オサンドサンが背負っていた三十三カ所の観音さんを納めている箱(お堂)を「オセタ」と言いい、「御背板」と書く。亮英導師は「オセタはここにお祀りしている」と案内してくれた。本堂に向かって左側に「西国霊場三十三観音御背板」と書かれた小堂に御背板は祀られている。
 
 中央に熊野三山の権現様、左右には高さ50〜60pの金張りの枠を三段に仕切り、その棚に三十三の観音さんをお祀りしている。横壁の額には 「西国巡礼・御背板道中」と書かれ、オセタをたたみ、背負ったジャンバー姿の行者さんの写真と 、道中用おせたの前と後の写真が 飾られている。
 御背板の写真を見るまで、壁に掛けられゴザにくるまれているのが御背板だとはまったく気がつかなかった。
これも御背板やでと案内してくれたのは、役行者像の横にある「西国三十三霊場の観音様をお祀りしています」と記された小堂だった。

 中にはやはり、ミニチュアの観音さまがずっらとお祀りされている。ええ〜と驚いた、「もう10年前から熊野修験のお世話になって奥駆けに参加し、出峯するとき役行者像前で勤行してこの観音様にも合掌してきた」。 なんと謎ときのように西国三十三度行者について知ろうとしてきたのに、なんにも知らずに、ずっとまえから御背板の観音様に手を合わせていたのだった。

 さらに、亮英導師は「背板行者参籠記名帳」を見せてくれた。それは大正4年から昭和56年までの三十三度行者の参籠記録である。最後の三十三度御背板行者だった上田行者は大仏組という組織の行者で、他に嬉組・富田林組・住吉組・四人行者組・紀三井寺組と6組みの三十三度御背板行者の参籠年と各行者名が記録されている。大正4年の記録には、住吉組・五名、富田林組・5名、紀三井寺組、五名、四人行者・四名の19名が記録されている。
青岸渡寺 御背板道中
 「戦争が始まって来なくなった」と田子の調査報告書に記されているように、第二次世界大戦前から参籠行者が減ってしまい、記録によると戦後の昭和25年に再開した巡礼行は、嬉組の二人と大仏組の一人だけで、昭和43年以降は上田氏一人になった。昭和56年の参籠が最後になって、西国三十三度行者の存在は人々の記憶から忘れられてしまった。

 オサンドサンと呼ばれ職業的に西国三十三札所を巡礼する行者はいなくなってしまったけど、現在でも西国三十三札所を何度も巡礼する人達はいる。那智勝浦町の稗田由明氏(77歳)は、もう西国三十三札所を26回も巡礼し、茨城市の総持寺から「特認権中先達」という称号をいただいている。バスを利用しての巡礼の旅で、ただお寺を廻るのが好きで、無心で廻っているそうだ。

 大辺路を利用し、今日では想像しがたい荒行を実践していた西国三十三度行者の存在について 、だいたいのことが分かってきた。交通の発達、経済の成長は人々の暮らしをすぐに変えてしまう。
  子供ながらに記憶しているのは、昭和30年代まで「門つけ」をして町々を巡る人達がいたことだ。尺八を吹く虚無僧、団扇太鼓を叩く僧(妙見さん)、白装束の傷痍軍人、人形を操る恵比寿さん等、西国三十三度行者はこの「門つけ」をして巡る人達とはまったく違っていたのに、高度経済成長はこの人達の行者としての生業を否応なしに呑み込んでしまった。                                



西国三十三度供養塔から見えてくる古座組
清原寺 西国三十三度供養塔
 古城山・青原寺(曹洞宗)への石段の参道を登って行くと、右手に高さ3.28bの御影石製の宝篋印塔がある。正面に「西国三十三・・」「享保五・・」(1720)と刻まれているのが簡単に読みとれる、単純に西国三十三ヵ所を廻ってきた和尚を、称えるために建立したのだとずっと理解していた。
 ある日、急な石段を上り、宝篋印塔の前で休憩して正面の金石文をじっくり読んでみて、「西国三十三度供養塔」と刻まれていること気がついた。今まで全く気がつかなかったのにその時に限って、「・・・度」が非常に気になった。

 「古座史談・中根七郎遺稿集」(大正12年旧古座町役場助役・昭和十一年校訂古座史談発行)を再度読んでみると、「西国三十三所を三十三度巡拝したるなり、篤志驚くに堪えたり」と記されている。気になっていたのか、その箇所にアンダーラインを引いていたのに「度」の意味にまったく気付いていなかった。                          
 基壇には数十名の施主の名前がきざまれているがほとんど読みとれない。正確を期すために拓本を採って、300年前古座で活躍していた人達を探ってみようと試みた。新宮拓遊会代表・松村さんご夫婦そして榎田さんご夫婦に、拓本の採り方を教わり作業を進めると、偉業を達成した行者、信者の施主達の祈念した願いが紙面に浮き出てきた。


享保五子天正月十八日  塔身正面
西国三十三度供養塔
願主 覚峯貞心

一切如来心秘密全身舎利 (塔身) 塔身左
宝篋印陀羅尼
陀羅尼経がサンスクリット語でびっしり刻まれている

(塔身の側面と背面)


施主古座池口村 (正面基壇)     (左基壇)
  中西 孫左衛門          和田 治右衛門
  藤代屋 傳八郎          三尾川村
   同   傳三郎          大仲 伴右衛門
   同   八之丞          新宮 雑賀町
  日高屋 恵右衛門        阿ワや 孫助
  角屋  善六郎           □□□□□
  津屋  太兵衛          一関玄入信士
  山本屋 六左衛門         父母
   同   市十郎          自観妙生信女
  雑賀屋 八十郎          法誉恵 □□信士
                     鏡誉知 □□信女


 今から290年前、西国三十三札所を三十三回巡拝する修行者がいて、満行を供養するため修行者と結縁した人々が施主になって、総高3b28aの寶キョウ印塔を建立しているのだ。この修行者は青原寺に籍を置く僧なのだろうか、そうではなくて古座地方に居住している在家の行者なのか、施主の方々とはどのようにして結縁したのだろうか。満行するのに一体何年かかったのだろうか、謎だらけの疑問が湧いてくる。

 那智山・青岸渡寺の副住職・高木亮英導師率いる熊野修験 の一員として、大峯奥駆けに参加した時、山上ガ岳の大峯山寺から少し下った奥駆け道沿いに、大峯修行の回数を刻んだ石碑がたくさん建立されていたのを思い出した。青原寺の西国三十三度供養塔や山上の大峰登拝三十三度供養塔は大先達が達成した菩薩行の偉業を講の人達が施主になって建立しているのだ。
 
 行者は自身の研鑽だけではなく、人々を煩悩から救い出したいと願う祈りがあるからこそ、厳しい修行を実践することができる。また、一般の人々はその超人的な実践行を称える石碑そのものに手を合わすことによって、行者がなしえた偉業の孝徳に触れ、観世音菩薩の大慈悲の恩恵を被むることができる。
 建立時に盛大な落成法要が催されたことは想像できる。青原寺の下路光淳住職に当時のホウキョウ院塔建立に関係した資料が残っていないか、もしくは過去帳で何か読みとれないかとお尋ねしたが、古い時代の文書類は遺っていないとのことだった。   

 言い伝えによると、この宝篋印塔に刻まれている施主の方々は廻船問屋を営んでいたと聞いている。資料を探していたところ、「古座の廻船問屋」(中根七郎著・昭和10年)と題した冊子の解読本を古座古文書研究会代表の谷口哲夫氏にいただいた。 「古座の廻船問屋」には宝篋印塔に刻まれている施主の方々が登場してくる。一番最初に刻まれている中西孫左衛門はこの時、古座組の大庄屋を勤めていた。   
 
 紀伊続風土記・牟婁郡第九の池ノ口村の項に「天正年間、摂州・池田ノ城主・池田筑後守正久の子八郎三郎勝政、荒木村重に押領せられ,其子吉兵衛勝恒、當村に遁れ居住す。慶長年間海部郡小雑賀村中西氏を養子として氏を改む、其裔四代大庄屋を勤め代々地士たり。」と中西家の由来が記されている。

 古座浦を代表する大産業は捕鯨で、それに鰹漁、さえら漁が漁業の中心だ。古座奥からは材木・薪・炭などを産出していた。太地の捕鯨は全国的に有名だが、古座でも元和(1615年)年間の頃から捕鯨で繁盛し、万治年間の頃、紀州藩営の古座鯨方を設けたと伝わっている。(改訂・古座浦捕鯨史稿・中根七郎)。         秋から冬にかけて上り鯨を樫野埼網代で、春になると袋港に基地を移し、西から東へ向かう下り鯨を住崎網代(潮の岬の西)で捕鯨していた。常に300人もの古座組(旧古座町)、江田組(旧串本町)の人々が働く、当地にはなくてはならない地場産業だった。

 古座の漁師の方である藤田年太郎(大正初年生まれ)さんに面白い民話を聞いたことがある。

 「昔のう、高池の方に偉い人がおっての、どんなにして鯨を捕りやるんか見たいて、ゆうもんやさか樫野埼の鯨山見へ連れていったんやと。漁師の親方がついて、鯨を追い込む説明するんやけど、ちゃんと聞きないんやと、鯨はどこな・・鯨はどこへいったんな、てばっかりゆうもんやさか。しまいに漁師の親方腹たってきて、両手で頭を押さえ、あそこじゃ・・てやったたんやと。・・家来がものすごく怒っての〜。・・あとで、高池の屋敷に来いと言いつけられた。えらいことになった。打ち首にでもなるのか・・。高池のお屋敷に行って、頭を下げると、鯨漁の説明は、やにこうよかった。ほうびをとらす。親方はびっくりしたんやと。めでたし、めでたし。」

古座浦捕鯨絵図(樫野崎網代)

 この話しを聞いた時、すぐに高川原摂津守か中西孫左衛門のことが頭に浮かんだ。民話だけど、お話の内容には真実味があって納得できる。時代的に中西孫左衛門 のことではないかと想像できるのだが。今の高池小学校の敷地が中西孫左衛門のお屋敷のあった場所だと伝わっている。

 「古座の廻船問屋」に「古座の青原寺内に大なる観音堂を建て、梵鐘を鋳し、鐘堂を設けたるは享保七年なり、その鐘の銘文に・当浦近邊出入船渡海安全・の文字あり、又同寺の坂に大なる供養塔(西国三十三度供養塔)あり、同時の建立なり」と中根氏は記している。残念なことに、青原寺の梵鐘は戦時下兵器に鋳され「里はまだ夕日ながらに暮れにけり 霧より伝う山寺のかね」と熊野巡覧記を記した玉川玄龍の詩にだけ遺っている。 「当浦近邊出入船渡海安全」と刻んでいた梵鐘の施主には、古座組大庄屋中西孫左衛門を始め、角屋善六郎・雑賀屋八十郎・藤代屋傳八郎・藤代屋傳三郎など、宝篋印塔にも名を連ねている旦那衆も見える。 それに、中世の時代から高川原・古座に居住し当地を領有していた水軍領主の末裔・高川原兵右衛門も肝煎(庄屋の補佐)として刻まれている。

 川港を利用していた廻船問屋の親方衆は港の直ぐ山腹の青原寺に渡海の安全を祈願して鐘堂・梵鐘を寄進し、十一面観音を本尊とした観音堂をも建立した。観音堂は戦後台風によって倒壊、観音さまは本堂の上座敷にお祀りしている。「古座の廻船問屋」には、享保年間、古座浦の廻船問屋が栄え、「西向に建ち列ねたる土蔵の白亜はその色海水映して、為に漁族の泳ぎ寄ることがなかったと言い伝えり・・」、と想像出来ないほど繁栄していたと記されている。

 現在でもそうだが、紀伊続風土記に、「古座川左岸の古座浦(1242人)に青原寺、阿弥陀寺、善照寺。中湊村(345人)に正法寺。高川原村(290人)に祥源寺。池口村(288人)・池山村(321人)に霊巌寺」と記され、川口の古座浦から池ノ口村までの約2qの間に6つもの寺がある。 
 この各お寺の檀家である廻船問屋の旦那衆は、一番河口の青原寺境内に建立されている宝篋印塔・梵鐘・観音堂の施主になっている。 名を連ねている廻船問屋の旦那衆は、大庄屋中西孫左衛門を筆頭に古座組での廻船問屋の組織を束ねていた商人達だ。

 宝暦十年(1761年)に問屋仲間15名が藩に三十両の冥加金を納め、「これまで取引している客船(他国の荷を積んで来る船)はもちろん、新しく取引を求める客船も15名の問屋としか取引出来ない」と記された文書がある。宝篋印塔・梵鐘・観音堂の施主に名を連ねると言うことは、廻船問屋仲間の結束も兼ねていて、先祖供養・家内安全・現世ご利益を祈念したのだろう。

 「願主」の「覚峯 貞心」は西国三十三度行者でオサンドさんだということは分かってきた。前項の「大辺路を辿った近現代の西国三十三度行者」で記したオサンドサンと同じように御背板を背負って西国三十三札所を巡拝していたのだろう。
 青原寺の「西国三十三度供養塔」の資料を熊野歴史研究会の事務局・山本殖生氏に送ったところ、「覚峯 貞心」行者は尼行者だと認識。熊野歴史研究会の例会で富田林市の玉城幸男氏を講師に迎え現地研修会を催した。玉城氏は西国三十三度行者の研究者で、特に「西方寺(和歌山市)の女性の西国三十三度行者について・智玄尼を中心として」・「女性の西国巡礼三十三度行者・尼サンドについて」などの著書がある。この題に記されている「尼サンド」とは、女性のオサンドサンのことで、「覚峯 貞心」行者はなんと、女性の西国三十三度行者だったのだ。

 自身が檀家である青原寺の宝篋印塔の願主が尼サンドだなんて考えもしなかったし、まして今日、宝篋印塔の存在する意味すら語り継がれていなかったから、この西国三十三度供養塔の存在する有り難さに感嘆するだけだった。この指摘とともに、玉城氏の驚きはこの宝篋印塔に刻まれている建立年月だった、「享保五子天正月十八日」それは玉城氏の尼サンドの研究調査記録を大きく塗り変えるものだった。

祀りしている御背板(青岸渡寺) 「女性の西国三十三度(尼サンド)供養塔一覧」(平成17年)によると、大阪府下は2カ所だが、紀ノ川流域では、安永九年(1780年)から慶応三年(1867年)の23基、明治三年(1870年)から明治四十二年まで15基の、合計38カ所もの供養塔が確認されている。 
 青原寺の供養塔は享保5年(1720年)だから安永九年(1780年)より60年も遡る。玉城氏の記述によれば、「新宮の神倉本願は熊野比丘尼達の本居地であった。

 妙心寺の尼僧達を支えたものに和歌山の尼僧達がいて・・・」熊野比丘尼と紀ノ川流域の尼サンド達の交流を記している。
 オサンドサンは熊野三山の権現様を中心として、三十三体の観音様を納めたお堂を背負っているから、熊野三山信仰と観音霊場信仰は密接に関係している。青原寺の覚峯・貞心尼サンドは紀ノ川流域や新宮・妙心寺に属する尼サンドだったのだろうか。

 青原寺・過去帳の詳細な調査をお願いしたところ、過去帳には遙か290年を遡る「覚峯・貞心」の記述があった。「享保十二歳未四月逝・覚峯貞心庵主・生縁伯州也當寺観音堂ハ元三十三佛之願主ナリ」、西国三十三度の満行から七年後に亡くなり、伯州生まれなのに、古座に庵を構えて西国三十三所を三十三回巡拝したのだった。
 満行するのにいったい何年かかったのだろうか、天田愚庵の「順禮日記」によると西国三十三所を巡拝するのに93日を費やしている。だから一年間に3回巡礼出来たとしても11年間もかかることになる。

 玉城氏の記述にも、尼サンドは十三年間から十七年かけ巡拝を重ねて満行していたことが記されている。貞心庵主の生まれた伯州とは鳥取県の中・西部地域で、古い国名は伯耆国(ほうきのくに)と呼ばれていた。地域を象徴する霊山の大山(だいせん)はよく知られている。
 鳥取県立博物館・福代学芸員に鳥取県における宗教土壌について尋ねたところ、地域性なのだろう西国三十三度行者に関する案件は見あたらないが、善根宿に納めた六十六部行者の納経札を当館に収蔵していると話してくれた。

 庵主の生い立ち、熊野に至った宗教活動の過程は分からないが、古座に庵をかまえる尼サンドとして古座組地域で観音菩薩行の布教に人力し、地域の人々のお陰で西国三十三度という偉業を成し遂げることができた。宝篋印塔の落成法要は地域の信者達が参集する大法要だったのだろう。
 幕末から明治なかばまで青原寺第十四代・満慶和尚は「軒てらす 月に聞ばや 三十三とせ むかしをしのぶ こころつくしは」と庵主が衆生の為に行った苦行の証を忘れないようにと詩歌を遺している。貞心庵主は熊野・古座組を拠点に偉業を成し遂げた真の熊野比丘尼だったのだ。


池ノ口の如意輪像は西国三十三度供養塔だった

池ノ口 如意輪観音 西国三十三度供養塔 串本町・古座川町のお寺などを巡って西国三十三度供養塔を探してみた。大辺路刈り開き隊の神保圭志氏、故山口登志夫氏の協力もあって、高池上部・祥源寺の正体不明の宝篋印塔、高池上部の県道側の如意輪像、それに添野川・善光寺側の庚申堂に祀られている如意輪像が西国三十三度供養塔だと分かった。

 池ノ口の日吉神社入り口側の御堂には如意輪像、庚申塔、三界満霊供養塔が一緒に祀られている。如意輪像は建立時から地域の祈りの場だった。今日、建立された由来などは忘れられているけれど、いつも花が手向けられている。

座台 正面
  奉納 西国三十
  三度巡禮供養
               西国三十三度行者
               願主 法譽圓入
     正徳二年 壬辰 年
  正月十八日       紀州熊野古座池口村
               施主 中西孫左衛門

座台左側面
               熊野那智山
               宿坊 尊勝院

座台 右側面
        報賽奉納
               大般若経六百巻
               十六善神壱軸
               日本第一熊野那智山
               十二社権現御寶前

 正徳二年(1712)と言えば青原寺の西国三十三度供養塔が建立された 享保5年の8年前にあたる。今のお堂より少し下った、古座街道と大辺路の山側の迂回路にあたる「なち道」(池の口・地蔵峠・佐部・八郎峠・中里)の交差する角に祀られていたと聞いた。
 霊巌寺(曹洞宗)の小原征雄住職は「あの如意輪像はお寺にあるべきなのに、なぜあそこに安置されているのか分からない」と不思議がっている。この西国三十三度巡禮供養塔の施主は大庄屋の中西孫左衛門 一人だ。青原寺のほうきょう印塔の施主として最初に刻まれているし、お堂のすぐ近くの高池小学校にお屋敷があったと伝わっている。

 那智勝浦町史・上巻の「諸国檀那分ヶ帳」(天保五年・1834)に那智三十六坊が諸国からの信者を各坊舎に分宿する範囲を規定した中の、「御宿尊勝院分」に古座組の古座浦・中湊浦・池之口村・・・等が記されているから、基壇に「熊野那智山・宿坊 尊勝院」と刻まれていることに納得する。それにしても、明治の廃仏毀釈(明治元年・仏法を廃し釈迦の教を棄却すること・広辞苑)まで那智山に三十六もの坊舎があったなんて想像もできない、今でも尊勝院は那智山青岸渡寺の宿坊として唯一運営されている。
 この「諸国檀那分ヶ帳」の「檀那」とは誰なのかと言うと、熊野三山への参詣者のことである。平安末期から熊野三山へ信者を導いていた先達は参詣者を檀那と呼び(宮家準・熊野先達 新城常三著)、特定の寺社に属して熊野信仰の普及に貢献していた。

 那智三十六坊は全国の各地域を地区割りし、この地域の参詣者は尊勝院の檀那、あそこの地域は実方院の檀那だとして那智山に参詣した時、決められた坊舎に宿泊することになっていた。石像の座台には「熊野那智山 宿坊 尊勝院」、「西国三十三度行者 法譽圓入」と刻まれているから、法譽圓入は尊勝院に属する西国三十三度行者だったと考えられる。

 法譽圓入行者は、西国三十三札所を巡拝しながら熊野三山信仰を布教する熊野先達で、檀那にあたる孫左衛門は行者を通じて尊勝院と繋がっていた。座台の右側面に「報賽奉納」として大般若経六百巻・十六善神一軸を那智山の十二社権現の御寶前に奉納している。今日、十二社権現御寶前と聞いても実感がない、青岸渡寺副住職・高木亮英導師は「明治になるまでの、那智山には如意輪堂と十二社権現があった。如意輪堂とは青岸渡寺のことやの、十二社権現は明治になって那智神社、戦後、那智大社となったんやの」と説明してくれた。
 渡来の仏様を日本古来の神様に重ね合わせて権現様と呼んだ。熊野三山で言えば、本宮大社の家都御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来、速玉大社の速玉神(はやたまのかみ)は薬師如来、那智大社の夫須美神(ふすみのかみ)は千手観音で、これら神様に姿を重ねた仏様が熊野権現で、一般に神仏習合と言われる。古の時代から、那智山の十二社権現は尊勝院の僧侶達が取り仕切っていた。熊野修験の出峯時、那智大社にて高木亮英導師に続いて般若心経を唱える。神仏習合だった十二社権現への古来からのお勤めの実践なのだ。

 報賽奉納とは広辞苑によれば「祈願の成就したお礼のため神仏にお礼まいりをすること」だそうで、西国三十三度行者の満行は孫左衛門にとって観音菩薩行の成就であったのだろう。大庄屋として古座組を治めるにあたり、十二社権現それに如意輪堂への信仰心を広めるとともに、自身の信仰心は地域の人々に権威を示すことにもなった。これより九年前の元禄十六年(1703)には、大般若経六百巻それに十六善神一軸を地元の霊巌寺(池ノ口)に寄進していて、その教典は今も霊厳寺の寺宝になっている。
 如意輪像を見つめると、その造形の美しさに見入ってしまう。堅い石材の鬼御影石を細部にわたって彫刻し磨き仕上げる、300年前の石工の技術の高さに感心してしまう。


木地師が施主だった西国三十三度供養塔

 中世の時代、古座地域を領有していた水軍領主・高川原氏は、色川郷に隠れ住んだ三位中将平惟盛の子孫(古座史談・中根七郎遺稿集)で、高川原村(高池下部の旧地名)の臨済宗妙心寺派・祥源寺の辺りに住んでいたと伝わっている。
 祥源寺の境内には由来の不明な石塔群があり、神保圭司氏と故山口登志夫氏が調査中、宝篋印塔の塔身部にかすかに遺る「西国三十三・・」を確認した。塔身・基壇に刻まれた金石文は全く解読不能だったが、拓本を採ると刻まれた金石文はっきりと浮き出て正確に読みとることができた。

祥源寺 西国三十三度供養塔祥源寺(臨済宗妙心寺派)
 
 塔身正面    奉西国三十三度順禮供養

 塔身左側    寶キョウ印塔

 塔身右側    安永九年庚子二月吉日
            願主 沙門 恵心

 基壇正面    大坂道頓堀幸橋
           金屋平兵衛
      施
          木地屋伊右衛門
      主    同   おかな
           同   長兵衛

          木地屋茂右衛門

 基壇左側
          北堀江四丁目
          金屋□右□□

          真砂
           孫左衛門
          同   おきく
          同   弥兵衛
          同   □□□

          恵心
          先祖代々精□


 やはり、西国三十三度順禮供養塔で、恵心行者は名前からして尼さんだと分かる。それにしても、大坂道頓堀幸橋・金屋平兵衛を筆頭に木地屋伊右衛門の家族と木地屋茂右衛門、北堀江四丁目の金屋・・、そして古座奥・真砂の孫左衛門達が施主のほうきょう印塔なのだ。
祥源寺住職の宮内要道氏によれば、真砂の龍雲庵は祥源寺の末寺で、真砂の方が施主になっている石塔が祥源寺にあってもおかしくないと教えてくれた。青原寺の宝篋印塔のように、地元の廻船問屋の旦那衆が施主だと分かりやすいが、願主の恵心行者の満行供養塔を大坂の方が主になって建立している。行者と施主の方達の繋がりが不思議で気になった。

 大阪道頓堀幸橋・北堀江は馴染みのある地名だ、大坂の商人と高川原との関係を廻船業と結びつけ、「金屋」と言う屋号から鉱物を扱っていたんじゃないか、そして古座川奥の川運の発着場だった真砂との関係について考えてみた。
 桑原康宏氏著の「熊野・その表層と深層」の「地下資源と熊野」の記述に「真砂(まなご)地名は、紀南に多い地名である。・・・紀南の真砂地名も鉱山地名である可能性も出てくる。」そして、「紀伊東牟婁郡誌・下巻に紀伊国名所図絵の写本としながら・・・銅山 蔵土村の山よりいにしへは銅出しと伝」と記している。

 真砂の下流に蔵土と書いてクロズと呼ぶ地区がある。古座川筋では江戸時代から戦後まで採掘されていた鉱山として一般的に知られている。古座川の右岸にあり、赤茶けた岩肌が露出しているから鉱山跡だとすぐに分かるし、右岸へと架けられた橋は「金山橋」と呼ばれている。現在、坑道への入り口は岩石で埋められている。あたりに散乱している岩石には小さな水晶が沢山付いているので、子供達とよく探しに行ったもんだ。
 掘り出した鉱物を、真砂船に積み込み古座へ川運していた。戦前、古座奥への車道が出来てからトラックで運搬していたが、戦後しばらくして閉山したそうだ。

 古座川筋の各地(滝の拝・山手・明神・真砂・三尾川)に金比羅宮が祀られている。古座川では川運が盛んだったから、船舶交通の守り神を祀っていると素直に考えられていた。
 古座川町史編纂室長・後地勝氏によると、不思議なことにこの宮の御祭神は「金山彦」だという。「金山彦」は鉱山の神様なのに、金比羅宮と金山彦が関係し合っていることが分からないと言っていた。それに、江戸時代から続いていた蔵土鉱山に関した採掘の資料なり、鉱物の物流についての資料は残っていないそうだ。

 もう一組の木地屋伊右衛門と言う屋号から、古座川における木地屋・木地師について調べていると、古座川筋で木地師の暮らしをかいま見ることが出来た。
「昔、熊野の山奥に木地師が暮らしていた。彼らは惟喬親王(これたか)に関わる系統であることを印した鑑札を持ち、山の七合目から上の木を自由に切ることが出来た。木地をロクロで粗挽きしてお椀や盆を作っては里に下って、米・味噌・塩・等と交換していた。彼らは地域の山村民と交わらず独自の暮らしをしていた。・・彼らは山から山へと移り住む漂白の民だ・・」・・何てことが一般的な本に記されていたから、そんな事ぐらいの知識しかなかった。
 「北山村史・木地師の里」によれば、「立会川流域は古い木地屋の遺跡であり、しかもそれが明治初年まで続いていたのである。東中(葛川)に滝谷という老人(四年ほど前94歳で死去)がいたが、子供のころ、親が作った木地物を奥峯峠を越えて葛川に運ぶとき、親の後について峠を越える苦しさに泣いたことをよく話していたという」。それに、「元禄七年は、今から300年ほど前であるが、このころ四の川に40名近い木地屋が生活していたとは、驚くほどの多人数である。」と記されている。

 滋賀県神崎郡永源寺町の「永源寺町史・木地師編・上巻」によると、蛭谷の筒井公文所(筒井八幡宮)の役員が数年おきに全国の各山間部の木地師を訪れ、「氏子駈」という木地師の鑑札代、それに「御初穂」として寄附を勧進してまわっていた。その内容は「氏子駈帳」という古文書の解読本で、1142頁に及ぶ分厚い史本である。
 正保4年氏子駈帳(1647)から明治二十六年寄進帳(1893)までの246年間にもおよぶ、「氏子駈帳」につづられた木地師・木地屋達の戸籍謄本のようなものだ。人里離れた山間部に暮らしていた木地師達は、鑑札の発行もとの蛭谷の筒井公文所から管理されることによって身分を保障されていたのだった。その内容を少し見てみよう。

299頁  元禄七年  
 「しゃうくん山木地や」 (将軍山木地屋)
  一 弐 匁     御はつお   忠三
  一 壱匁八分   うちこかり   同人
  一 壱匁五分   御はつお  儀右衛門
  一 壱匁四分    うちこかり  同人
など6名の木地屋の記載

338頁 宝永四年
 「こざ浦」
  一  壱匁  うじこかり  喜左衛門
  一  弐匁   御はつお   同人
  一  四分  うじ子かり   次右衛門
  一 壱匁五分 御はつお   同人

338頁〜339頁 宝永4年
「紀州古座奥長追木地や」     (古座川町)
      親子三人
「松根木地屋二軒」          (古座川町)
「松根とろこか谷木地屋一軒」
「こさおくくほか谷木地屋八軒」   (古座川町)

878〜879頁 安永九年
「同和田村器地師」        (大塔村和田)
  一 八分 氏子駈   甚右衛門倅(せがれ)
               小椋勘左衛門
  一 壱匁 御初穂 同人

「紀州四番組木守山器地師」     (白浜町)
  など五名
「添野川山木地師」         (古座川町)
    一名
「同国之内七川成川木地屋」   (古座川町)
    一名
「同国松根山木地屋」        (古座川町)
    一名
「同国小森山木地師」        (古座川町)
   十二名

 宝永四(1707)年には、古座浦で喜左衛門・次右衛門の二名、長追・松根で十四名の記載が見られる。それにしても、古座浦に木地師が居たとは驚きだ。記述によるとブナ・トチ・カツラ・ケヤキなどを材料にしたそうだが、古座浦の樹木はスダジイ・カシ・ケヤキ・エノキ・カゴノキ・クスなどだ、ケヤキ以外はどの樹木が木地物に適していたのだろうか。しかしこれ以後、こざ浦の木地師の記載は見あたらない。
 安永九年(1780)には松根・小森川・添の川・成川で氏子の記載がある。注目したいのは、この年に尼サンド・恵心が西国三十三度巡禮を満行し、木地屋伊右衛門や金屋平兵衛らが施主になって西国三十三度順禮供養塔を建立しているということだ。

「永源寺町史・木地師編・下巻」によると、蛭谷の近くの君ヶ畑には高松御所(大皇器地祖神社)があって、筒井公文所と同じ制度で全国の各山域を勧進してまわっていた。
 その勧進帳は「君ヶ畑氏子狩帳」で、元禄七年(1694)奉加帳には紀州むろ郡二色山(串本町・14頁)で六名の記載がある。「蛭谷氏子駈帳」の元禄七年にも二色山の氏子の記載(300頁)があって、六左衛門・久次郎・長右衛門・七郎兵衛・忠兵衛らが筒井公文所・高松御所と両方の氏子になっている。
 木地師の元締めである両所は、近畿圏はもちろんのこと遠くは秋田・福島・山形それに九州・四国・山陰など各地に点在する木地師を訪ね、勧進して廻っていた。

 氏子駈帳・氏子狩帳の全国各山間部の木地師達は個人名で記述されているが、なかには木地師の代表的な名字である小椋姓を名乗る木地師もいる。「蛭谷氏子駈帳」の「紀州黒江木地師・安永九年・876頁)は、商人名の漆屋勘之右衛門・木地屋茂右衛門・阿わ屋忠兵衛・播磨屋弥八などと41名の屋号名が記載され、仲間組で勧進に応じている。黒江には木地物の仕上げ、漆塗り職人など漆器を商っていた問屋が沢山いたことが分かる。

 「紀州・移動する職人たち」(和歌山県立紀伊風土記の丘・編)には、江戸時代の百科事典・和漢三才図絵(1712年)の記述として、「紀州の産物として黒江の椀が紹介されている」と記している。。
 「熊野草紙(宇江敏勝著)」には、「護摩檀山をはじめ周辺の山々に、木地師はとくに多かった。・・・漆器の産地である黒江(海南市)という得意先があったからだ。・・・独特な足踏みのロクロをまわして挽いていた。・・・人の肩や馬の背中に積んで、山越えの龍神街道を清水町、美里町をへて黒江まで運ばれた。」
 紀伊国名所図会・黒江椀には、「此の地もっぱら渋地椀をこしらえることを所作として、四国・西国路及び関東迄もあきなう。海路便よし工商軒をつらねてキリの立つる間もなくはんじょうの地なり」と記されている。
 
木地師善吉の妻の墓 宝篋印塔の施主・木地屋伊右衛門は山間部で木地を挽く木地師ではなく、熊野各地の木地師達が挽いた椀や盆など木地物を買い集める問屋だったのだろう。松根・添野川・成川で挽かれた木地物は人の肩や牛・馬の背中に積まれて真砂に集められ、真砂舟に積まれ古座に運ばれた。伊右衛門はそれらを廻船に積み黒江へ回漕する。
 どうやら、木地師に対する一般的な知識は偏っていたようだ、彼らは山の木を切り尽くすと、別の山間部へ移る。しかし「漂白の民」つまり「流れ漂うこと・さすらうこと(広辞典)」ではない。おそらく移動する場合でも彼らにはしっかりした横の繋がりがあるから、どこどこの山間部はもう「切り木」になっていると分かっていたのだろう。
 広葉樹は切っても切り株から萌芽する。炭山と同じように30〜50年という森の自然再生を利用して山から山へ移動していただけだろう。

 古座奥の平井村には「木地木売付一札・(平井保郷会文書)・嘉永弐年(1849)酉ノ十月)」、雑木山壱カ所を、木地師・平右衛門・善吉・茂右衛門らに木地山として代金四十三両で売却した文書が遺っている。(古座川町史・248〜250頁)彼らの挽いた木地物の流通経路が確立していて、大量に売れていたから木地山を求めて村有林まで買い上げている。つまり山村民と共に暮らし、それなりの財力をもっていたのだ。
 その証は古座川町添野川・臨済宗・善光寺過去帳で確認できる、享保十八年(1733年)・「木地屋七太夫」を始め過去帳に木地師の記載があるからだ。松根の墓地には明治二十五年建立の小椋善吉の墓の側に、平井で木地山を買上げた木地師・善吉の妻の墓(安政年間)や木地師・庄兵二の墓(安政年間)がある。木地師は、山村民と違い自由に入山して木を切る権利を持ち、、ロクロで加工して木地物を作り定まった問屋に卸す。仲間意識の強い、職人集団の組織が確立されていた。  
  
 海南市・平岡繁一氏から木地師に関する資料をいただいた。「椀木地輸送と黒江」(紀州漆器の里 黒江の歴史文化伝承会編)の冊子で、「発見された木簡の教えるもの」・「椀木地と轆轤」は平岡氏が担当している。「旧木村家住居・・、平成14年、屋根瓦の葺き替えのため、瓦を撤去したところ、瓦の下からかつて飛騨や美濃方面より送られてきた椀木地の荷札が大量に発見された」。
 「紀州海南への輸送経路は大きく分けて二つあり、その美濃地区にあっては、長良川を経て桑名より船便で、紀伊半島を回り海南に運ばれたものと、今一つ飛騨地区の木地にあっては、富山の東岩瀬湊から下関、瀬戸内海を経て、大坂に入港、積み替えられた後、海南の黒江や日方浦などに運ばれて来たのです」とある。
 荒挽きされた木地物の黒江への流通経路が不明だったが、送り状の木簡発見によって江戸期の物流経路を確定できたのだった。平岡氏の指導によって想像していた木地物の物流経路の疑問は解けたけれど、熊野地方の史本でこの件に関した記述をまだ見ていない。

 大坂道頓堀幸橋・金屋平兵衛、木地屋伊右衛門一家、木地屋茂右衛門、北堀江四丁目・金屋、真砂・孫左衛門、おきく、弥兵衛らが施主である。尼サンド恵心行者との繋がりを少しでも知りたく、祥源寺それに真砂の龍雲庵の過去帳を見せていただいたけど、手がかりにあたる記述を見つけることが出来なかった。
 江戸期、高川原・池ノ口(古座川町・高池)には廻船業を営む商人達が暮らしていた。尼サンド恵心行者は高川原の廻船問屋の旦那宅を定宿にしていたから、大坂の商人との繋がりがあったのだろう。


古座奥 添野川の如意輪像


添野川 如意輪観音 西国三十三度塔  添野川の善光寺への道沿いに庚申堂があり、庚申さん横の如意輪像は西国三十三度供養塔だった。古座川筋の西国三十三度供養塔はこれを含めて四基分かっているが、すべての地区の人達は何に由来した石像なのか忘れてしまっている。

 正面基壇
                享保九甲辰正月日
        奉納 西国三十三度
          生国山城西京行者
                    道泉

 基壇右側
            施主    平之丞
            住持山由巌

 善光寺過去帳によると、「住寺山由巌」は三代目の住職として「前住當山中興 山由巖(しゅうがん)和尚  享保十八年・・」と記録されている。「善光寺略史」によると弘治元年(1555)善光庵が創建され、元禄元年(1688)に善光庵が全焼、中興と記されているように山由巌(しゅうがん)和尚が享保二年(1717)に善光寺として再建している。

 しかし、施主の平之丞を見つけられず、何回か読み直していたら「蒸野・・・」の添え書きとして、小さく「平之丞のこと」と記されているから、先代の名前を引き継いだのだろう。
 平之丞は当地の有力者で信仰心の篤い人物だから、善光寺の再建にも人力し、施主として如意輪像を刻んだ道泉行者の西国三十三度満行供養塔を和尚とともに建立している。

 蒸野家は承久元年(1219年)後鳥羽上皇に味方して、幕府軍に敗れた村上一族に属する家系で、信濃村・村上義清を先祖とし、承久の乱の敗戦後、熊野に落ち延び古座奥の西川荘を開いた一族の末裔だそうだ。
 添野川は古座から田辺までの古座街道からひと山奥まった地域だが、那智山から古座街道を辿り、山間部の集落を定宿にしていたオサンドサンがいたと考えてもおかしくない。西国三十三度行者・道泉は蒸野家を定宿にして、那智山から古座街道を辿り紀三井寺を目指すオサンドサンだったのだろう。
 
「那智山・・地元の人々は・・なちいさん・・と親しみをこめて敬う」。
 西国三十三度行者が背負っていた御背板の仏様達は熊野三山の権現様と三十三の観音様だから、西国三十三度修行は熊野三山信仰が基にあって、一番札所・如意輪堂の那智山の先達が主になっていたのだった。
熊野先達・比丘尼達は諸国を勧進して熊野信仰を普及させた。しかし、西国三十三札所を巡拝し続けていたオサンドサンだった熊野先達・熊野比丘尼の存在を知る人は少ない、大辺路を辿り西国三十三札所を巡拝しつつ「なちいさん」への信仰を説いていた。

 今日、西国三十三度修行は絶えてしまったけど、満行の証である供養塔はその偉業を成し遂げた宗教的環境、当時の人々の暮らしまでを今に伝えている。

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